手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

雨の降る夜も雪の日も

 雨の降る夜も雪の日も、通い通いて大磯や、

 これは舞踊の「雨の五郎」の冒頭です。江戸時代のスパースター、曽我の五郎が父親の仇を打つべく連日仇の様子を見に行くすがたを踊ります。鎌倉時代、曽我の五郎は兄の十郎とたった二人で、大名、工藤祐経(くどうすけつね)を打ち果たします。五郎は確か15歳です。江戸っ子はこうした話に感動し、たくさんの、曽我物と呼ばれる芝居ができます。雨の五郎は若手の出世を祝って舞踊の発表会によく出る作品です。

 私の流派では、弟子の卒業記念に、舞台でこれを躍らせることにしています。三味線、鼓、太鼓、笛、唄い手と、演奏家だけでも8人お願いしなければなりません。大変な出費です。然し、毎回それをやっています。

 生演奏で舞踊をすると言うことは一生にそう何度もあることではなく、しかも、自分の出世披露と言うことで、ひときわ喜びが大きいようです。こうした喜びを人生の中で持っていることがプロの道の第一歩なのです。適当に名刺を作って、プロになりました。と言う人とは根本が違うのです。

 

行きずりの人になぜ教える

 今週は一連の指導ビデオについて書きました。このように書いてゆくと、私は今の若手マジシャンが出しているビデオ作品を駄作だ、つまらないと思って書いているとお考えの人がありますが、話は逆です。面白い作品はたくさんあります。むしろなぜこの作品をここで公開してしまうのだろうか、と残念に思います。

 わずか3000円の指導ビデオで、誰が買うともしれないものに、自分の苦労の作品を公開して、この人はこの先どう生きるのだろう。と、思います。次から次と作品がわいてくる人でも、アイデアは必ず枯渇します。いったん枯れだすともういい作品は出て来ません。そもそも多くのアイデアは才能では有りません。それはちょうどサーフィンのようなもので、波にうまく乗って、板の上で絶妙なバランスを維持して進んでゆく過程にアイデアが生まれます。

 

サーフィンで波の上に立つ

 波とは時代のトレンドを指します。まず自分のしていることが時流に乗っていなければ話になりません。一つのジャンルのマジシャンの、上位20人くらいがしているマジックを追い続けて、そこを追いかけているうちに引き継ぐマジックが何であるかを探します。そこから自分の作品を組み立てます。初めはほとんど人まねです。

 そこから自分の作品を出してゆきます。周囲のアマチュアからも注目されるようになります。このあたりから、サーフィンの波の乗る資格を得てきます。

 今まで水面下にいたのに、ようやくボードの上に立ちます。ここで作品集なり、演技ビデオを出します。然し、要注意です。ここまでこのマジシャンは才能で駆け上がってきたわけではなく、ただ時流がわかってそれにくっついて来ただけなのです。時流を読むと言うことは、若いマジシャンは得意です。何の予備知識なく、今の流行はストレートに受け入れます。むしろ私なんかは、時流を前に、「何でこんなことをするのだろう」。と疑問が先に立ってしまいます。頭が古いのです。

 

才能ある人が消えて行く理由

 私が作品集を見ると、いい作品がゴロゴロあります。でも、どれも誰のために作られたものかがわかりません。ただ、素材としてころがっています。芸能ではないのです。私は、「もったいないなぁ」、と思います。「こんな生な状態で外に出さずに、じっくり自分の作品として練って、自分の演技が大きく評価された後に、発表したらみんな飛びつくだろう」。と思います。

 このままではアイデアも生かされず、才能も空費してしまいます。本来良くなるかもしれない人たちが、結局話題にならず、収入にもならず、失意のうちに消えて行きます。かつて仲間内で持ち上げられていたスターは、みんなこんなことを繰り返して消えて行きます。彼らは成功を焦ります。仲間に持ち上げられてプライドばかり高くなります。気持ちの上ではマジック界の上位に立っている気持です。然し話題は作れず、収入にもならず、当人の思いとは裏腹に人生は常にアンバランスです。

 でも、それでいいのです。若い人の人生はみんなそんな風なのです。本当に大きくなってゆく人は、どうにもならない今の状況からいろいろなものをつかみ取ることで大きくなるのです。まだまだ本当の才能で勝負していないのです。

 

一休さんの話

 一休さんが、庭の松を見ていて、枝が複雑に折れ曲がっているのを、弟子に、「あの曲がった枝はどうしたらまっすぐに見えるだろうか」。と尋ねます。弟子がいろいろ見てもまっすぐには見えません。すると一休さんが、「俺の友達の蓮如に相談して来い」。と言って、弟子に浄土真宗蓮如を尋ねさせます。尋ねられた蓮如は、「うん、曲がっている、実に曲がっている、松は良く曲がっている」。と言ったと言う話。

 何のことだかさっぱりわからない話です。トンチ話で有名な一休さんですが、実は、室町時代臨済宗、京都大徳寺の住職で、浄土真宗蓮如とは親しい仲間です。共に有名な宗教家で、特に一休宗純一休さん)はウイットに富んだ生き方が後世までも愛されています。多くのトンチは、一部は、考案と言う、禅の問題集のようなものからとられています。考案とは噺家の謎がけに似ています。

 松の枝をどう見たらまっすぐに見えるか、と言う無理難題に対して、多くの弟子は首をかしげてしまいます。しかしよく考えてみれば、それは自分の価値観を押し付けて、見ているから、枝が曲がっていてはいけないと思い込んでしまうのです。蓮如はすぐにそこに気付いて、曲がっていることのほうが自然なんだと伝えるべく、枝が曲がっている松をほめたのです。見事な連係プレーです。

 明らかにそのやり方で行ったら失敗すると言うマジシャンを見た時に、なんて言ってやったらいいか、大いに悩みます。素直に教えてやって感謝されるならいいのですが、さんざん悪態をつかれて悪く言われることのほうが多いのです。その人の人生なのですから、どう生きようと勝手です。でも何とか失敗しないように、少しでもわからせてあげたいと思うのは同じ道を進むものとしての親切心です。然し、それも自分の価値観の押し付けでしょうか。曲がった枝を見て、曲がっている、よく曲がっていると言うことが正しいのでしょうか。

指導ビデオ終わり