手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

雨上がり

 昨日もよく眠れました。雨も上がって、うまい具合です。帯状疱疹もかなり引いてきたように思います。今日は快調です。この2,3日内には非常事態宣言も解除されるでしょう。この数か月、全く無意味な政治パフォーマンスに国民全体が乗せられました。ロックダウンなんかしなくても、時期が来ればウイルスは退散します。ロックダウンのお陰で何千万人もの人の仕事が失われました。愚かな過剰反応です。

 お陰で芸能はいまだに仕事がきません。俳優や、オーケストラは困窮しています。昨日、野田秀樹さん、平田オリザさんの文章を読みました。みんな不満の持ってゆく場がなくて困っています。同情します。手妻師も同じです。

 

成功が欲しい

 若いうちは何とかなりたい一心で、いろいろ余計なことをするものです。然し、なぜ自分が認められないのかをよく考えることです。力がないのです。知識が足らなすぎるのです。それなら先ず知識や、技術を学ぶことが第一です。まずしっかり勉強しなければだめです。それをどうにかなりたいばかりに、指導ビデオを作って販売したり、レクチュアーをしたり、自分のリサイタルを企画したり。それ自体は悪いことではないのですが、いかんせん実力に厚みがありませんから、一度演じた後に、もう余力がありません。それではすぐに飽きられてしまいます。やった活動も、自分が思うほどには世間の話題にはなっていないのです。なぜでしょうか、それは、自分が思っている半分も自分自身には才能がないからです。

 10代20代はとにかく学ぶ時期です。成功を焦って、学ばなければならないときに、人に物を教えようとしたり、ろくすっぽ手順もないのに自主公演をしていては先がありません。ここで間違えると人生を大きく遅らせます。

 

私の修行時代

 とこう書くと、「じゃぁ、藤山さんはどうなんですか。若くしてビデオを出して大当たりしたそうじゃぁないですか」。はい、仰る通りです。しかし私がビデオを出したのは28歳です。私は12歳で松旭斎清子の弟子になり、3年半修行して、基礎マジックと手妻を学びました。その後、アダチ龍光先生、ダーク大和先生からマジックとトークを学び、18歳くらいから渚晴彦先生にカードや鳩を習い、高木重朗先生にクロースアップや、様々なマジックを習い、名古屋の松浦天海先生について初代天海先生のハンドリングを習いました。22歳で藤山新太郎を名乗り、26、27歳にはマジックキャッスルのビジティングマジシャンを2年連続貰いました。27歳には、文化庁芸術祭に参加しました。

 そうした実績があって、ビデオを出したわけです。ビデオも依頼があって出したので、私が望んで出したものではないのです。ビデオを出すまでに15年以上の修行があったのです。それ故に私のビデオは売れたのです。

 

インチキマジシャン登場

 この時代、他の同年代のマジシャンをみていると、言っていることが実にいい加減でした。「マジックは種仕掛けではできない」。その通りです。「では何が必要なんですか」、と、問うと、「見せ方だ」。と言われました。「ガチョン」です。本質と技法を混同しています。マジックが種仕掛けではできないことは事実です。何が必要かと言うなら、まずマジックが芸能であることを自覚することなのです。一つの演技に対して、適切に喜怒哀楽を表現して見せなければそれは際物芸になってしまいます。

 例えば、剣刺しボックスの箱にアシスタントが入るときに、アシスタントが笑いながら入ります。箱に入れられるのに、なぜアシスタントは笑って入るのでしょう。よくわかりません。箱にふたをして、マジシャンが剣を刺します。なぜ剣を刺すのでしょう。自分のアシスタントではないのですか。よくわかりません。

 何本か刺してから剣を抜き、箱を開けると、アシスタントが笑いながら出て来ます。アシスタントはなぜ笑っているのでしょう。自分を刺した相手なら怒らなければいけません。然し、怒りは一切なく、二人は仲良く手をつないでポーズを取ります。これは一体何をしているのでしょう。頭を抱えてしまいます。

 これでは、喜怒哀楽は一切語ってはいません。観客は感情移入できません。でもマジシャンはそんなことを考えません。どうもマジシャンの芝居は、芝居ではなく、その場しのぎです。これが芸能だとはだれも思わないでしょう。

 つまり、マジシャンのしていることは、マジックの都合でマジックをしているのであって、芸能として捉えてはいないのです。自分のしていることはいかに不自然で、理屈に合わないかを考えていなかったのです。

 私は、マジックが芸能である、と言う基本的な考えを語ろうと思いました。ただそれだけのことですが、人はそのことをなかなか理解しなかったのです。

 ところが、私が一連のビデオを出している間も、どんどん、自己愛と自己顕示欲に満ちた若いマジシャンがビデオを出してきます。誰がビデオを出してもいいですが、マジックの世界がどんどん素人化して行きます。そんな人たちがビデオを出しても、人は注目しません。指導ビデオを出すよりも、まずじっくり次の時代をにらみ据えて、しっかり学ぶべきです。耐えるときに耐えて、考えを蓄積することが大切なのです。

  

埋木舎

 幕末に幕府の大老になった井伊直弼は、井伊彦根家の14男に生まれました。いかに男として生まれても、14番目では彦根の大名にはなれません。この時代の大名の子供が生きる道は、三つしかありません。1、どこかの大名の養子になる。2、出家して坊さんになる。3、家来の家を継ぐ。直弼は10歳で控えの屋敷を貰い、そこに暮らします。これを部屋住みと言います。いわば飼い殺しです。

 初めのチャンスは、九州の大名から養子の話がきました。直弼と、弟の二人が選ばれて、面接をします。どうも弟のほうが素直そうで、性格も良さそうなので、弟が選ばれ、7万石の大名になります。この時、恐らく直弼の心はすさんでいたでしょう。直弼は、自分の住む控えの屋敷を埋木舎(うもれぎのや)と名付けます。このまま世に出ることなく埋もれて行き朽ち果てると感じたのでしょう。しかしその後兄たちが養子に出たり、早死にしたりして、何と彦根藩主の地位が舞い込んできます。

 それまでしっかり勉強して、知識を身につけていた直弼は井伊家35万石の藩主になります。結果から逆算すれば、若いころ九州の7万石の大名にならなくて良かったのです。あまり小細工をせず、不器用に生きたことが結果大きな成功を手に入れたと言えます。

 私は20代のころ、彦根の埋木舎に行きました。地味な屋敷です。毎日ここに暮らしていてはさぞや退屈な日々だったでしょう。然し、こんな時期こそ大切なのです。認められていないときにどう生きたか、それは自分を語る意味でとても貴重なことです。

 

 若手マジシャンも、未成熟な指導ビデオなど出さずに、まず優れた演技をお作りになることです。すべてはそれができて、社会に認められて自分の将来が開かれるのです。苦しくつらい時こそ、その人の本当の能力が見えるのです。

続く