手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アダチ龍光の芸

 生前、アダチ龍光師は、人気のあるマジシャンでしたが、アマチュアの間では評判が悪く、師の演じるマジックを一顧だにしない風潮がありました。私は若いころからそれは間違いだと考えていました。マジックの会合などで、師の芸はここが素晴らしい、あそこが素晴らしいと言って回りましたが、衆寡敵せずで、誰も私の話を評価してくれませんでした。

 一つには、師が通常寄席で演じていたマジックは、ロープ切りであったり、不落の水(銀の円筒形の小さな入れ物に水を入れてさかさまにすると水がこぼれない。昭和40年代によく手品売り場で売られていたもの)であったり、扇子から銀貨の出るマジックだったものですから、それを軽く見る人が多く、「アダチ龍光と言う人は売りネタを演じるだけのマジシャンだ」と思われていたのです。

 ところが、シンブルをやってもうまかった(そもそも70を過ぎた年齢でシンブルをするマジシャンはいませんでした)し。紅白の小さなハンカチを両手でもむと、大きな祝いと書かれたシルクになる奇術をしたり(これは何度見てもネタ取りがわかりませんでした)。特に、9本リングと、パン時計は絶品の出来でした。

 この作品はともに、マックスマリニーが原点で、マリニーは明治末年から大正期に何度も日本にやってきて、その都度、日本の大きな劇場で何十日も公演をしています。

当時からマリニーはアメリカで一流のマジシャンで、西洋の有名なマジシャンが日本で興行することは珍しいため、よく観客が集まったようです。

 

 本来マリニーは大舞台の人ではありません。クロースアップ(当時はクロースアップと言う概念はありません)や、サロンマジックの人で、あまり大きなマジックはしなかったのですが、読心術だの、予言だのと、セリフを使って大きく表現する演技などをして、大正期にはとても珍しいマジックだったものですからよく受けていたようです。

 ところがそうした演技はしゃべりが重要で、必然的に通訳が有能でなければ務まりません。しかし、マジックができて英語が達者と言う人は希少です。いろいろ探したところ、木村壮六(のちの木村マリニー)と言う人を見つけ出します。この人は浅草の大勝館と言う洋画の封切館で弁士をしていた人で、洋画の弁士なら英語は大丈夫だろうと言うことで通訳を依頼します。ところが実は、木村は全く英語がわかりません。わかった風をして大勝館の弁士の仕事を引き受けていただけなのです。

 ところがこの人は、大変な勘の良さを備えていて、マリニーを交えたリハーサルで、すべての演技を通訳(?)をしたのですが、居合わせた関係者たちも、マリニーも全く違和感なくすらすらと訳して見せたそうです。つまりあてずっぽうがことごとく正解したのです。これによって、マリニーは木村を信用し、日本に来るたびに木村が通訳をすることになりました。

 ちなみに、この時期、マリニーが頻繁に日本に来たのは、彼のひいきの経営者が上海にいて、度々彼を招いて興行したためです。彼にすれば、ついでの仕事で日本に立ち寄ったのですが、おそらくついでの仕事が、彼に莫大な収入をもたらしたはずです。

 

 アダチ龍光師は、この木村マリニーの弟子です。初めは弁士になりたくて、木村の門をたたいたのですが、木村いわく、「弁士は先がない、そう遠くない将来に映画は声が出るようになる。そうなれば弁士の仕事はなくなる。だから俺は今から奇術の勉強をしている」と言ったそうです。そこでアダチ師は、「先生がそうおっしゃるなら私も奇術師になります」と、まだ奇術師になってもいない木村の一番弟子になったのです。

 

 ここで師弟は、何十回となくマリニーの演技を見ることになります。巧妙なマジックで解明できない時には、上手と下手に分かれて見たり、そのあと旅館で二人で研究し合って一作ずつ解明していったそうです。こうしてできたものが9本リングであったり、パン時計だったのです。マリニーのリングの手順は、今では、欧米では継承者がいません。アダチ師が残したことで、今日、継承されたことになります。

 9本リングは今、私の流派で残しています。しかし人気はいまひとつです。どうしても派手な12本リングの方を習いたがる人が多いため、9本は陰に隠れていますが、こちらもなかなか捨てがたい手順です。

 後に木村は弁士をやめて、木村マリニー(多分自称)と名前を変えて奇術師になります。アダチ師は、木村荘一と名乗って弟子になります。この修業時代に覚えたマリニーのマジックが、こののち、アダチ師の奇術のレベルを高めたと言えます。

 パン時計などは、いつ、パンの中に時計を入れたのか、全く動作に不自然さがありませんでした。パン時計を演じるには、毎回パンが一斤必要です。ギャラの安い寄席では簡単に演じることはできません。私は幸い、師が、松竹演芸場で、10日間パン時計を演じたのを見たことがあります。一斤のパンを二つに切って、好きな方を観客に選ばせます。そして選んだパンをほじくると時計が出てきます。それは見事な芸でした。

 パン時計を演じるときは、弟子のお昼は、決まって、残ったほうのパンにジャムを塗って楽屋で食べていました。その姿が微笑ましくもあり、侘しくもありました。しかし、思えばアダチ師も木村師がパン時計を演じた時には、同じようにパン時計の片割れを食べさせられたのでしょう。弟子とはこうあるものと言う姿を50年たっても継承していたことになります。

 私も、以前にはパン時計を演じていましたが、またやってみたくなりました。その時には弟子にパンとジャムを買って与えようと思います。