手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

志ん生、龍光、おやじの三人旅

 私の父親、南けんじと、志ん生師匠、アダチ龍光師匠はずいぶん仲が良かったようです。この話は、父親、南けんじから直接聞いた話で、昭和25,6年の話です。

 南けんじは昭和20年にスイングボーイズと言うコミックバンドをこしらえて、人気者になり、寄席演芸の世界で活躍します。志ん生師匠は、酒も手に入らない戦時中の日本に愛想をつかし中国に行きます。中国はファンもいて、生活に困ることはありません。しかし、日本が戦争に負けてロシア軍が入ってきてからは散々な目にあい、命からがら日本に帰ってきます。一方アダチ龍光師匠は、大阪の吉本で活躍していたのですが、大阪大空襲で寄席も家も焼かれてしまい、仕方なく郷里の新潟に戻って村役場の職員になっていました。戦争が終わり、また芸人になりたいと考えて東京に出てきて、寄席に出演するようになったのです。

 この三組がたびたび国鉄の慰問興行に出かけました。国鉄とは今日のJRです。慰問興行とは、例えば東海道線なら、沼津、富士、清水、静岡と言った主だった駅で演芸会を催します。場所は小学校の体育館です。するとそこに、近くの駅で働いている国鉄職員とその家族が集まってきて、慰問会を開きます。費用は全額国鉄が支払ってくれますし、お客様は国鉄職員ですからどこも満員です。そんな仕事を一週間やって東京に戻ります。いい仕事です。メンバーは先に書いた三組のほか、漫才、歌謡ショウ(女の子の歌い手と楽団数名)総勢12名です。まだテレビがない時代ですから、地方では演芸は珍しく、どこで見せても観客は大喜びです。

 

 さて三組は東京駅で列車に乗りますが、乗るとすぐに花札を始めます。列車の中での博打は禁止ですが、志ん生やアダチ龍光では車掌も文句を言いません。町についても楽屋で博打をしています。楽団や、漫才まで入って賑やかな博打です。

楽屋で志ん生師匠は出演の間際まで博打をしていて、着物を着ながらも、「もういっちょうおくれよ、あぁ、あぁ、だめだこりゃぁ、俺は全くついてないなぁ」、なんて大騒ぎして、そのまま、すぅーっと舞台に上がって、「えぇ、落語と言うのは」なんてしみじみ語り始めるのですが、その変わり目が見事で、楽屋一同大笑いしたそうです。

 

 志ん生師匠は、大の博打好きなのですが、からきし弱くて、持ってきた金を三日目には使い切ってしまいます。アダチ師匠も似たり寄ったりです。翌日、いつものように楽屋の博打に入ろうとすると、「師匠はだめですよ。師匠はお金ないんでしょ。お金のない人は入れません」と言って仲間から断られてしまいます。仕方なく志ん生師匠は、マネージャーからこの仕事のギャラを前借して博打に加わります。そのお金もなくなると、もう誰も相手にしてくれなくなります。

 すると志ん生師匠は、朝方、旅館で寝ている南けんじの枕元に座って、父親を起こしにかかります。父親は、「なんです師匠、こんな朝早くに」「けんちゃん、花札しようよ」「えぇ、花札はいいけど、朝飯も食べていないんですよ」「朝飯なんかどうでもいいよ、花札しようよ」「いくらなんでもまだ早いでしょ」「いや、君がやろうと思えばきっとできるよ、ねぇ、花札しようよ」「そうですか、それじゃぁ少しだけ」

布団の上で花札が始まります。結局、志ん生師匠もアダチ龍光師匠も取られるだけ取られて先々の出演料までなくなって一文無しです。

 

 帰りの列車の中で、志ん生師匠の腕を見ると、旅の前には立派な時計をしていたのに、小さい婦人物の時計に代わっています。

「師匠、時計がずいぶん小さくなっちゃいましたねぇ」「うん、旅も長いと時計も溶けて小さくなるね」「はぁ、溶けちゃったんですか」「ところでけんちゃん、暑いね、こんな時にはアイスクリームなんか食べたら涼しくなるだろうね。」「本当ですねぇ、食べたいですねぇ」「いや君ね、さっきホームでアイスクリーム売って歩いていたよ。あれ買って食べようよ」「どうぞ、食べてください」「いや、あのさ、君済まないけど10円貸しておくれよ」「ありませんよ」「えっ、10円だよ、10円ないの」「ありませんよ、博打で取られちゃったから」「えっ、何、10円まで取られちゃったのかい、じゃぁ無一文かい、いや、敵ながらあっぱれだねぇ、全部使っちゃったんだ、へーぇ、10円もない人が世の中にいるんだ」「えぇ、ありませんよ、そんなことより師匠は自分でアイスクリーム買ってきたらいいでしょ」「君ね、あたしがお金持っているくらいなら、君から10円借りようなんて思いませんよ」「ええっ、それじゃ師匠もお金ないんですか」

 結局無一文で東京駅に帰ります。駅にはアダチ師匠の奥さんが待ち構えていて、アダチ師匠は、楽屋に泥棒が入って、金を全て盗まれたと事前に奥さんに報告をしていたため、駅のホームで、誰に五百円借りた、誰に千円借りたと言うと、奥さんはすべてその場で精算してくれました。

 後日、父親がアダチ師匠の家に別件で訪ねて行くと、奥さんが父親の顔を見て、奥の部屋に入るなり、「お父さん、お泥棒さんが見えましたよ」と言ったので、恥ずかしいやら、きまり悪いやらで合わせる顔がなかったそうです。

 この話は父親がたびたび私に話してくれた話で、志ん生師匠の声色付きで事細かに話してくれました。絶品の面白さでした。昭和20年代は、いつでも仕事がついて回って、どこへ行っても歓迎されて、演芸に取っていい時代だったのです。