手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

人は何を求めて芸能を見る

 私が20代の頃、アダチ竜光先生に随分お世話になりました。龍光先生は当時奇術協会の会長をしていました、テレビにも頻繁に出演していて、人気がありました。私の親父とは仲が良くて、よく一緒に楽屋でトランプ博打をしていました。その縁もあって、私を何かとよく面倒を見てくれたのです。

 ある日アダチ先生が、何気に私に、「なぜお客さんはマジックを見に来るんだ」。と質問しました。さぁ、そんなことは考えたこともありません。「何でなんでしょうか」。「何だい、わからないのか。それじゃぁ、なんでお客さんは演芸場に来るんだ」。「さぁ、なんで来るんでしょう」。「何もわかってないんだなぁ。お客さんにすれば。演芸場の入場料はいい金だよ。その金があれば酒も飲めるし、結構いいものも食える」。「そうですねぇ」。「いくら手品見たって、何にも腹の足しにはならない。漫才、落語だって、面白い芸ばかり出るなら値打ちもあるが、つまらないものを見たら、金をどぶに捨てるようなものだ。そんなら初めから旨いものを食ったほうがいいんじゃないか」。「そうですねぇ」。「なんで演芸なんか見に来るんだ」。

 結局私はその質問に答えられませんでした。そして、アダチ先生の答えも聞きそびれてしまいました。それからしばらくは思い出すたび、アダチ先生の質問の答えを考えていました。2,3年して出した結論は、結局人は孤独を紛らわすために芸能を見に来るのではないか、と考えました。

 

 これは正解だったと思います。しかし、20代の内は、そこから先に話が進みません。芸能と言うものが、孤独をどう癒すのかがわかりません。孤独を感じると言うことは、人間しか体験しないことです。人は時に、たとえようもないほどの孤独を感じたり、疎外感を感じたり、無常感を感じたりします。何一つ不自由のない人生を送っていても、ある日突然、今までの生き方に不安を感じたりします。

 例えば犬は、自分が犬であることに不安や、無常は感じません。犬が、「IT,やコンピューターが普及する世の中に、いつまでも犬をやっていていいのだろうか、こうして人に養われているだけでは時流から遅れやしないか」。などと思い悩むことはないのです。しかし人間は悩みます。例えば年寄りは、別段何の問題もないことを不安がります。時代とともに、いろいろな機械が自宅に入ってきますが、年寄にとっては、その機械のほとんどが、なぜ動くのか、どういう仕組みなのか、見当もつきません。それでも何とか、世間と折り合いをつけて生きてはいますが、あまりに理解を超えたものが増えて来ると、常に心の中では不安です。

 私の祖母などは、昭和の40年代に、新しいものを見るとしきりに不思議がっていました。自動車の運転もできず、テレビがなぜ映るかもわからず、電話がなぜ遠くの人に声を送れるのかも知りませんでした。機械の便利さを手に入れながらも、世の中の進歩が、徐々に自分を社会の隅に送りこんで行くような疎外感を感じていたはずです。

 機械ならばまだ、操作を間違えなければ動かすことは可能です。ところが人間関係は厄介です。子供の暴力や、逆に子供がいじめにあう、夫婦仲が悪くなる。仕事上の人間関係が難しい。病気、収入の不安、等々、いろいろな悩みが増えて来て、心は休まるときがありません。

 

 心の問題とか、心の触れ合いなどと、人は心を色々に語りますが、一体、心とはどこにあるのか、その所在があいまいです。心のありかを人に問えば、ある人は心臓を指すでしょう。しかし、本当にそこでものを考えているのかと言えば、考えてはいません。そこで、人は頭を押さえます。頭で心が解決するなら、もっと解決は安易なはずです。どうも違うように思います。結局、心の所在はあいまいです。第一、心がどれだけのサイズなのかも分かりません。

 今ここに3千円のお金があって、それで腹いっぱいおいしいものを食べようとすれば、その選択の幅は数々あります。焼肉だって、鰻だって、寿司だって食べられます。それは、自分の胃袋の大きさは自分で知っていますから、十分満足する量を食べて、なおかつ無駄することもないはずです。

 しかし、心にはサイズがありません。いくら心の満足を得ようとして、心の癒しを求めても、そもそもが寸法も、容量も分からないものに何をどう入れたなら心が満たされるのかもわかりません。にもかかわらず、人は心の癒しを求めて、食べ物よりも高価な代金を芸能に支払おうとします。

 もっと不可思議なことは、その演者です。ほとんどの演者は人の心を癒そうとも、人を慰めようとも考えてもいないでしょう。ひたすら漫才をしたり、歌を歌ったり、マジックをしたりしています。それも、何とか自分のマジックの技が認められて、一稼ぎしよう、などと、自分を売るためだけにマジックをしている人も大勢います。

 無論、自分は、人の心を癒すためにマジックをしていると言う人だっているでしょう。でも、そんなマジシャンに、「なぜ、あなたのカードが当たることが人の癒しになるんですか」。と問えば、みんな満足な答えなどできないでしょう。

 つまり、演じる人も、それを見る人も、心の本質を探ることなく、何となく寂しい、何となく満たされない思いでショウを見に来ているお客様に、演じる側は、あてずっぽうで、とりあえず面白そうなことを提供しているだけなのではないでしょうか。

 芸能界、芸術の世界などと言っても、一皮むけば、名誉欲と、あてずっぽうの世界なのかもしれません。そんな中にもきっちりと花を咲かせて、支持されている人もいます。次回はそのことを少しお話ししましょう。かつてアダチ先生が私に質問したときの年齢に、今、私は近づいてきています。私自身も、真剣に答えを出さなければならない年齢に来ていると思います。次回は心の内側のお話をしましょう。と言ってもマジシャンの話すことです。そう難しい話ではありません。

 

 神田明神 文化交流館地下1階のEDOCCO STUDIOで手妻の公演をします。毎月2回ないし、3回公演します。一年間続けますのでどうぞ、お時間がございましたらお越しください。

 

お申し込み先

https://cocoro-k.co.jp/events/edoccoillusion

 

 

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