手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

あがり症って何 4

あがり症って何 4

 

 あがり症の話もそろそろまとめなければいけません。

 あがり症と言うのは、自分が平常心を保てなくなるほど緊張して、普通に舞台活動が出来なくなることを言うのだと思いますが、なぜそうなるのかと考えると、それは、自分自身が自分を緊張させるようなところに追い込んで緊張を強いている場合が多いのではないかと思います。

 舞台に立つ前、或いは舞台上で、自己制御が出来なくなるほど緊張してしまうのは、自分の能力を超えて成果を求めてしまうからだと思います。自分をかっこよく演出しようとしたり、自分をいい人に見せようとしたり、マジックを完璧にこなして、人に認めてもらいたいと考えたり、つまり心の底で、これまでやってきた努力以上の、はるかに過度な成果を求めようとするから緊張するのだと思います。

 芸能を長く続けていれば分かりますが、いろいろ苦労して今日までやって来ても、その苦労の成果は微々たるもので、形があってないような、お客様からの拍手と、笑顔、そしてささやかな謝礼のみです。

 マジシャンの多くは、人に夢を与え、世の中が明るくなるようにと考えて、なおかつ大きな収入と名声を望んでマジックを演じているのでしょうが、実際にはさほど世の中から評価されるわけでもなく、お客様も、ショウを楽しんでくれはしても、見た傍からさっさと忘れてしまい、日常に戻ってしまう人が殆どなのです。

 そんな中で、自分のショウがうまく行くかどうか、お客様が自分をよく見てくれたかどうか、と、観客の反応を期待して、過度に自身に緊張を煽って、それによって身動きできなくなっているマジシャンの姿は、哀れを通り越して滑稽ですらあります。

 

 20代の頃、アダチ龍光先生の喋りに憧れて、「先生どうしたらそんな面白いことが話せるのですか」。と尋ねたら「諦めることだ」。と言われました。「何を諦めるんですか」。「何もかも。売れることも、金を稼ぐことも、もてようとすることも、上手くなろうとすることも」。「諦めたなら、面白くなりますか」。「なるよ。欲があるから嫌味になるんだ。自分のだめがわかって、手品が大したものではないとわかれば、人は面白がって寄って来るよ」。

 これからマジシャンとして成功して行きたいと考えている若者を捉まえて、「すべてのことを諦めろ」。と言われても、「はいそうですか」と諦められるはずはありません。この時私は「この年寄りは一体何を言っているんだろう」と、まったく先生の言っていることは理解できませんでした。

 

 そもそも、芸能をするような人は、人を超えて見せたい。人と差別化を図りたいと言う欲があるから舞台であがるのです。何とか自分をよく見せたいがゆえに、化粧をしたり、いい衣装を仕立てたり、人のやらないテクニックを密かに身に着けて、マジックをするのです。

 芸能とは欲そのものと言ってもいいと思います。そうなら、それを達成するために自己を制御出来ないほど緊張するのは、やむを得ないことで、芸能と緊張とは、欲と本音が表裏一体で、絶対に離れないものなのではないかと思います。

 然し、そうであるなら、芸能を演じると言うことは、それを制御する何者かの力に常に縛られることになります。ところが、上手い人を見ているとまるで天真爛漫に、すべてのことを超越して思うがままに演技をしています。「この差は一体何なのか」。

 アダチ龍光の芸を見ている限り、その演技は、そう難しいマジックはしていません。20代の私でもやればできるようなものばかりです。然し私としの、多くのお客様は食い入るように見ていますし、みんなアダチ龍光と一緒にいることに満足しています。私と師の芸との差とは何なのかと考えたなら、喋りなのです。

 喋りと言うのは、言葉の使い方の技術ではありません。構成力でもありません。その人の人生や考え方から出てきた心の告白なのです。それゆえに技法やマニュアルでは解決しないのです。然し、私は少しでも師の考え方の核心を探りたく、師に質問すると、「すべてを諦めることだ」と言われました。

 芸能をする者なら、若者なら、決してあきらめられないことを諦めろと言われたわけです。以来ずっとそのことを考え続けました。

 

 あがると言う行為は、その後、マジックのスキルを身に着けたり、今よりハードな仕事をこなしているうちに、制御できないほどにあがると言うことはなくなりました。然し、全くあがらないわけではありません。心の中の緊張はずっと続いていました。

 「もっと自然に、もっとおおらかな演技はできないものか」。と常に考えていました。そう思ううちに、自分をよく見せようとか、これを見せて成功してやろう、と思う気持ちが邪心なのだと気づいてきました。心に邪心があるから、もう一つの自分の心がそれを抑えるためにブレーキをかけようとしているのだと気付いたのです。制御する気持ちが悪なのではなく、邪心こそが悪なのです。そうならあがると言う行為は悪い行為でも、危険な行為でもなく、警鐘なのです。警鐘が鳴ったなら、心のどこかにこびりついている邪心を見つけて取り除く作業をすればよいのです。

 「子供の寝顔は無邪気だ」などと言う大人がいますが、この無邪気こそ、邪気の対極にあるもので、すべてを人にまかせて、何も考えずに眠る赤ん坊の姿こそが無邪気なわけです。芸の至高は無心にある。と言います。自らが余計なことを考えていては、うまく行きません。

 

 近頃、アダチ先生の言っていたことが徐々に理解できるようになりました。それが年齢からそうなったのかどうかは分かりませんが、言葉で分かるのではなく、日々芸能をしながら、心の中で、時に邪心が生まれると、何とかそれを抑えながら、「あぁ、ここで自分の邪心に気付いて行くことが無心なんだな、無心とは全くの無ではないんだな」と気付いて来ました。

 こう書くと藤山はすべてを悟りきった高僧のような境地に到達したと思われるかも知れません。いえいえ、私は俗なのです。それが証拠に、若い人が寄ってきて、「藤山さんはまったく日常も舞台も変わらずに、普通に演技しますよね」。などと褒められると、「そうか、自分もようやくアダチ先生と同等の芸の位置に立てたかな」。と密かに慢心がよぎります。私は俗なのです。

 

あがり症って何 終わり