手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

マックスマリニーとパン時計

猿ヶ京合宿の買い出し

 明日(14日)猿ヶ京で合宿をするために、一昨日(11日)布団や、枕を買い足しました。また今日(13日)は、肉や野菜やビールを買いに行きます。総勢12人の集まりですから、食事の量も相当に必要です。日頃は食事など作りませんが、合宿となると料理作りが楽しみです。日々変化のあることをしていると気持ちが生き生きしてきます。

 

久々伊勢丹

 昨日(12日)は、午前中に踊りの稽古をし、午後に新宿の伊勢丹に行って、靴や服を買いました。余り買い物に出かけることはないのですが、余りにいつも同じものばかり着ていてはだんだん貧相になりますので、思い切って上から下まで買いました。随分派手に出費をしました。何のかんのと半日伊勢丹で買い物をして、服やズボンを脱いだり着たりして、少し疲れました。でもそれがためにいい服が手に入りました。何とか出費した分、仕事をしなければいけません。

 

マックスマリニーとパン時計

 アダチ龍光師の演じたパン時計はマックスマリニーの演技を脇で見て覚えたものだと聞いています。マックスマリニーは生涯で5回以上、日本を訪れています。別段日本が好きで来たわけではないようです。「Malini&hisMagic(マリーニ&ヒズマジック)」と言う洋書に、彼が明治の末年から大正にかけて頻繁に日本を訪れていることが書かれています。上海に友人の実業家がいて、しばしばマリニーをパーティーに招いてくれたため、その帰りの駄賃稼ぎに日本に寄り、ひと稼ぎして行ったわけです。

 今日のマジック界ではマリーニは、クロースアップマジックの元祖のような扱いを受けていますが、この書物では随分様子が違い、明治の末に新富座で、トランク抜け(人体交換術)を演じています。それを若いころの天洋師が見ています。(奇術と私)

 実際、マリニーが日本に来ると、新富座のような1000人も観客の入るような大きな劇場を専門に開け、各地を一週間から10日間廻っていたようです。演者は、マリニーとアシスタントの男性、女性。それに通訳を引き受けた、木村荘六(きむらそうろく=後の木村マリニー)と弟子の木村荘一(後のアダチ龍光)ほんの5人くらいで1000人の舞台を開けるのですから、いい収入になったと思います。

 マリニーが頻繁に日本に来ると言うことは、いい稼ぎ場だったからなのでしょう。恐らく、日本で興行した利益だけでも、マリニーが半年生活できるくらいは稼いだのではないかと思います。

 

 話は前後しますが、そのマリニーの演技を、アダチ龍光師の師匠である、木村マリニー師が通訳をしました。弟子である龍光師はそれを手伝い、二人はマリニーのマジックを脇で見て覚えて行ったのです。

 今となっては伝説の彼方にあるマリニーですが、龍光氏の聞き書きからはマリニーが名人だったとはどこにも書かれていません。巧いことは巧かったのでしょうが、特筆するほど巧かったとは書いてないのです。あのダイバーノンが、マリニーを語るときには、純粋な中学生のような瞳に変わって、神に接するような思いで語っていたのに、龍光師にはさほどの名人とも思わなかったようです。

 ちなみに、マリニーはアマチュアマジシャンに対しては冷淡だったようです。アマチュアが楽屋に尋ねて来ても、一瞥(いちべつ)しただけでそっけない応対しかしなかったようです。バーノンに対しても同様で、バーノンから尊敬されていたにもかかわらず、マリニーはバーノンを相手にしなかったようです。バーノンのマリニーへの思いは片思いだったと言えます。マリニーからすればアマチュアが寄って来るときは、タネを盗みに来るときで、話をしてもいいことは一つもないと考えていたのでしょう。

 実際、彼はマジックのコンベンションにも顔を出さず、指導もせず、演技も、殆どは金持ちのプライベートパーティーを相手に出演していました。そのパーティーを引き受けるために、金持ちの好みを調べ上げ、専門の知識を勉強し、今彼らが興味を持っている話題を必ず会話に取り入れたり、社会常識を普段の会話でも取り入れて、一流の知識人を演じて見せたそうです。衣服や、葉巻に至るまで、一流を身につけ、泊まるホテルも町一番のホテルに泊まったそうです。

 

 そのマリニーがよく日本で演じたものは、読心術、9本リング、マイザーズドリーム(バケツコイン)、などで、それらを龍光師は脇で見て覚えたようです。その中にパン時計がありました。パン時計は、かつては西洋でも日本でも頻繁に演じられていた演目ですが、今は見ることがありません。面白いマジックですが、やり手がいません。

 それは、時計が懐中時計ではなくなり、腕時計になったために、扱いにくくなったのでしょう。懐中時計のように、クッキーのようなサイズなら、抜き取りも、パンに挿入することも簡単ですが、今の時計は鎖の形状に奇抜なものがたくさんあって、かさばって扱いにくいのです。そのため演じ手が減って行ったのでしょう。

 小箱にお客様から預かった時計を入れ、テーブルに置きます。テーブルの上にパンが一斤置いてあります。パンを半分に切り、お客様にどちらかを選んでもらいます。選んだほうにお客様の時計を瞬間に移すと言います。選んでもらった後で、選ばなかったほうのパンをほじくって見ます。中に何も入っていません。さて、小箱にピストルを向けて銃砲一発、箱を開けると、時計は消えています。その上で、残ったパンをほじくってみると、中からお客さんの時計が出て来ます。

 

 私は龍光師の演技を何度も見ました。師の得意芸ですから、いつ小箱から時計を抜き取ったのかもわかりませんでしたし、いつパンに時計を入れたのかもわかりませんでした。実に鮮やかなマジックでした。

 よく考えてみると、時計と言う固形物を仕込むには、パンはいい素材です。お札なら丸めたり畳んだりすれば、レモンや封筒の中に入れることはできますが、時計と言う形状は、畳むことも丸めることもできません。それを収めるのに、パンと言うのはとてもいいアイディアです。やわらかくて、時計を包み込むには最適ですし、タネが見えにくい利点があります。しかも、パンを舞台に飾れば絵柄が斬新で、お客様の興味を長く集めることが出来ます。今さらに、パン時計を思い出してみると、「いいマジックだったんだなぁ」。と感心します。

 私は、「これをなんとか来年のリサイタルでできないだろうか」。と考えています。そのためには時計を如何に扱うかが問題です。指輪を使えば簡単ですが、指輪がパンの中から出て来るのと、懐中時計が出て来るのでは相当に効果が変わってしまいます。ここは時計を生かしたいと思います。

 いろいろ考えてみると、新しいアイディアが生まれてくるかもしれません。出来てきたならまたお知らせします。

続く、