手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

リング 金輪 8

 

  明治時代の欧米のリング手順は、恐らく6本、7本、乃至8本のものだったと考えられます。6本は現在でもつかわれている、キー、ダブル、シングルが3本のものです。7本は、これにダブルをもう一組加えて、ダブル2セット、シングルを2本にしたもの。8本はダブルは1セットで、トリプルキーを加えたものです。トリプルが入ると手順は大きく変わります。従って、7本の手順と8本の差は極めて大きく、8本は12本リングの流れに属すものと考えてよいと思います。

 ここでもう一度、基本をお話ししますと、3本リングの手順と言うのは、キーとシングルのみのものです。便宜上私はこれを「小手順」のリングと呼んでいます。小とはリングのサイズではなく、キーと、シングルのみのシンプルな道具を指します。4本リングで、シングルが3本付いたのものもあり、これも小手順と考えてよいでしょう。

 これに対して、ダブルを加えたものを私は「中手順」のリングと呼んでいます。6本、7本の手順がそれです。そして、トリプルリングを加えたものを「大手順」のリングと呼んでいます。9本、12本の手順。いずれも単純な区別でそう呼んでいます。

 今日4本リング(ポケットリング)は、ダブルがついて、シングルとキーのセットですが、これはトリックス社の社長赤沼敏雄氏が考案したもので、赤沼氏は6本のリングを小型化して、安価に売りたいと考えていたのですが、小型化しただけでは、原価を下げることができず、シングルリングを2本削って、最小限のつなぎ外しに必要なリングを工夫し、今の4本に至ったのです。この発想は非凡です。結果は随分と売れたようです。このため、現在の4本リングは、ダブルが付きますので、6本、7本リングの仲間すなわち。「中手順」のリングと言えます。

 更に、トリプルが入って、複雑な形状が作れるリング、すなわち9本12本は「大手順」のリングとなります。前述の8本も「大手順」になります。

 

 その9本リングを得意にしていたのがマックスマリニーです。少し氏のことを書いておきましょう。マリニーはポーランド系のアメリカ人で、(1873年生ー1943年没)。欧米の奇術界では、今も歴代の奇術師の中でトップテンに数えられるほどの人物で、氏はステージからサロンまでのマジックを得意として演じていました。しかしそのレパートリーの中に、後年、クロースアップマジックと呼ばれるマジックがかなり入っていたために、クロースアップマジシャンの元祖と崇められるようになります。

 実際には、マリニーはサロンマジックの形式で、立ってカードやカップ&ボール等を演じていたのですが、何しろダイバーノンが若いころからマリニーに傾倒して、晩年に至るまで氏を絶賛し続けたものですから、マリニーの技は神格化され、噂が噂を呼び、神として評価されるようになったのです。実際にマリニーの演技を見た人の話では、うまい人ではあったが、バーノンが言うほどの技ではなかったと言う人もいます。その伝で行くと、死後、自分が偉大なマジシャンとして語られたいと思うのなら、純朴で、だまされやすい人を育てることです。私もそう考えて弟子を取っています。

 マリニーの優れた点は、クロースアップマジックを演じながら、大きな稼ぎを上げて見せたことです。師の活躍した、明治中期から、戦前までの昭和の時代は、全くと言っていいほどクロースアップでは稼げなかったのです。いや、それどころか、昭和の間中クロースアップマジシャンはほとんど稼げていなかったのです。ヒロサカイさんも、前田知洋さんも収入になり始めたのは平成になってからです。

 マリニーは寄席や、酒場のショウなどには出演せず、もっぱら金持ちのプライベートパーティーなどに出演していました。氏は小男で、目玉がぎょろっとしていて、マジックの関係者とは距離を置き、マジック大会などにも参加しませんでした。自分のショウを見に来るアマチュアは拒まなかったようですが、べたべたとした付き合いは一切せず、バーノンのように積極的に近付いてくる若者にも、扱いは冷淡だったようです。

 氏は金持ちに自分を売り込むのがうまく、洋服は常に最高の仕立てのもの。葉巻も最高級品。泊まるホテルも町一番のホテル。何から何まで一流を演出しました。そしてギャラは法外なほど高かったそうです。クロースアップで大金を稼ぎ、一流品で身を固めたマリニーを見て、若きバーノンが憧れ抜いたのは当然と言えます。

 

 さて、そのマリニーは、明治の末から戦前までに少なくとも5回来日しています。来日の度に、新富座などの大きな劇場で興行しています。氏がたびたび来日するのは、師の友人の実業家が上海に住んでおり、度々彼のためにショウや、プライベートパーティーを催してくれていたのです。氏は上海に寄るついでに必ず日本に寄り、数か所劇場で興行をしてアメリカに帰って行ったのです。

 師の演技には、トランク抜け(人体交換術)、読心術、カード当て、カップ&ボールなど様々あり、その中に9本リングがあったのです。氏の演技を通訳したのは、木村紅葉(荘六)と言う活動写真の弁士で、後に木村マリニーと名乗って奇術師になります。木村は、洋画の弁士をしていたのですが、洋画の弁士なら英語はわかるだろうと、通訳を依頼されます。ところが木村は、英語は皆目わからなかったのです。しかし子供のころから奇術に興味があったので、マリニーの通訳を買って出て、出まかせに訳したのですが、その訳のほとんどは正解だったらしく、マリニーに信頼され、以来、来日の度に木村はマリニーの奇術の通訳をしました。

 この木村の弟子がアダチ龍光です。二人は連日マリニーの舞台を袖で見て、氏のトリックを解明します。演目の中でも9本リングは複雑で、簡単に見て取れません。そこで、連日、舞台の上手と下手に分かれて、二人で演技を見て、夜になってから、二人で、ああだこうだと話をまとめて、ついに来日中に氏のリングをすべて解明します。

 それがいつのことかと考えると、アダチ龍光とマリニーとの接点は、1919(大正8)年と、1926(大正15)年ですが、大正8年はアダチ龍光が入門したてだったので、まだ奇術を見て取ると言うほどの力はなかったと思います。たぶん、大正15年の興行の時に師匠を手伝って、種を解明したのだと思います。

 結果として、この時、木村マリニーとアダチ龍光がマリニーの手順を盗んだことは奇術の歴史的には正解だったのです。と言うのも、マリニー亡き後、9本の演技を継承する人が欧米にいません。全く消えてしまったのです。アダチ龍光が残したことで、9本リングの手順は今も残ったのです。明日はその9本の手順を解説します。