手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

メンゲルベルクと宇野先生 2

 さて、クラシック音楽のレコードを買い集めていた私は、メンゲルベルクを知り、指揮者の解釈一つで音楽の感動の度合いが全く違ってしまうことを知りました。そこで同じ曲を、別の指揮者のレコードで聞く楽しみを覚えます。こうなると、レコードへの出費はマジックの次に大きくなってきます。

 こうしてレコードを買い漁っていると、レコードのジャケットの裏側に、作曲家のこと、指揮者のこと、いろいろ情報が書かれている裏書を熱心に読むようになります。当時、メンゲルベルクのレコードの裏書は主に宇野功芳(うのこうほう)先生が書かれていました。この先生の文章が私の心を捉えました。通常の音楽のお勉強のような書き方ではないのです。

 作曲家が何を考えてこの曲を作ったか、指揮者が音楽をどうとらえているか、視聴者はどう音楽と向きあうべきか。そのことを直球で語って来るのです。私は宇野先生の文章を読んで初めて芸術を自分事として考えるようになりました。

 先生の書いていることを読んでいるうちに、指揮者が音楽をどう考えているかがわかるようになりました。と、同時に、ちょっと視点を変えて、指揮者の活動を他の芸能に置き換えて考えてみてみると、名優や噺家、奇術師が何を考えて芸能を演じているのかが見えてきます。

 それは例えて言えば、出来上がった家を見て、その外観だけを見て「いい家だ、綺麗な家だ」、と言っていたものが、家の基礎から、構造までもが見えるようになり、むしろ、よい家と言うのは、その構造や基礎を発展させたものであることに気づきます。そうなって初めて「この家は何を提供するための家なのか」、がわかるようになります。

 私は、レコードの裏書を読むうちに芸術がなんであるかを理解してゆくようになりました。そうした点で宇野先生は恩師であるわけです。特に多感な時期のこうしたものの考え方を覚えると、当然人生そのものが変わってきます。マジックの世界を見渡しても、なかなか芸術を教えてくれる奇術師と言うものがおりません。

 そうした中で、宇野先生が、私のマジックの指針となってくれたことは疑いありません。更に先生の文章です。先生は誠に個性的な文章の書き方をします。何が人を感動させるのか、何が面白いのか、を実に詳しく、しかも自分自身の独自の見方、自分の審美眼を信じてで解説します。感動を語るのにテクニックは必要なく、しっかり本質を見て、感動を素直に語れば伝わるんだということがわかります。

 その後、私自身がマジック雑誌にいろいろと文章を書くようになります。その時、子供のころから読んでいた文章で影響を受けた先生を参考にさせていただくようになります。その先生とは、宇野功芳先生であり、「つかぬことを言う」の著者、山本夏彦先生であり、古くは、「江戸から東京へ」の著者、矢田挿雲先生です。これらの先生の文章は若いころ、繰り返し、繰り返し何十篇も読みました。お三方に共通していることは、江戸前の恬淡とした書き方で、それでいてひねりがあって、ばかばかしいことが好きで、洒落ているのです。

 学生の内は、「あぁ、こんな文章が書けたらどんなにいいだろう」。と、憧れだけで読んでいたのですが。実際、自分が文章を書くようになって、少しずつ尊敬する先生方の考え方がよくわかるようになりました。

 

 当の宇野先生は、メンゲルベルクのレコードの裏書以降、音楽評論家として、大きく名を成してゆきます。そもそも先生がべた褒めをする指揮者と言うのが、当時の音楽界で中心に存在していた人たちではなく、どちらかと言うと癖の強い、やりすぎの指揮者とみられていた人たちばかりでしたから、先生の文章そのものが初めは音楽界では軽く見られていたように思えます。

 然し、恐ろしいもので、宇野先生が、熱烈に指揮者をほめ、あちこちの音楽雑誌に書いてゆくと、それまでローカルな活動をしていた指揮者が脚光を浴びて、やがて巨匠に変貌してゆき、レコードの売り上げが大きくなって行ったのです。

 ムラビンスキー、クナッパーツブッシュ、シューリヒト、朝比奈隆小林研一郎、など、先生が褒めると、それまで一顧だにしなかった視聴者が、レコードを買うようになって行ったのです。そうなると、先生自身も徐々に音楽界で力のある評論家になって行きました。私は外から眺めて、先生の成功に喝采を送っていました。

 

 と、ここまでの話なら、私がレコードの裏書を書いていた音楽評論家の影響を受けたというだけの話なのですが、実はある日、重大な事実を知ります。宇野先生のお父さんは、漫談家牧野周一さんだったのです。先生の本を見ているうちにそのことがわかりました。牧野周一先生は、私は何十回も楽屋で顔を合わせています。痩せて小さな人で、喋り一筋で世相を語ります。非常に玄人受けのする漫談で、漫談と言う芸はこういう風にするものだという、お手本のような芸でした。私の父親が同様に漫談家であったので、親子ともども縁が深かったのです。

 実は、牧野先生の亡くなる前日、すなわち最後の舞台が浅草松竹演芸場で、私はその舞台を見ています。演芸場のトリを取っていた先生は、夜の部で、客席がもう30人くらいしかいなくなったところで漫談を語っていたのですが、不思議なことに、舞台の牧野先生が青白く見えました。勿論ブルーライトなど使ってはいません。漫談ですから。その上、いつものネタを話さずに、自分の将来について語り始めたのです。

 話していたことは、これからは、あえて笑いを取るような漫談をしないで、お客様と向かい合って、互いがニコニコしている中で何気ない世間話がしたい。というのです。

全く不思議な漫談でした。しかしその抱負も空しく、翌朝には亡くなっていたのです。

 訃報を知った後、名人の最後とはこうしたものなのか、と思いました。何の衒いもなく、ただお客様と向かい合っている。それが芸の最終到達点なのか、と。

 

 さて、私はその後、先生が牧野先生のご子息と知った時に、20代の時に見た、牧野先生の最後の舞台のことを宇野先生に伝えたくなりました。そこで、いろいろ調べて宇野先生に手紙を出しました。すぐにご返事が来て、会ってもいいということでした。

 私はこの時、もう40を過ぎていたのですが、この時はまるで少年のように嬉しかったのを覚えています。池袋の鰻屋でお会いして、お話をさせていただきました。子供のころからレコードの裏書で知っていた先生と現実に向かい合ってお話ができることの幸せをかみしめました。

 以来、折に触れてお会いする機会があり、私の公演にも何度も見に来てくださいました。先生と、浅草の並木の藪で天抜きで菊正を一杯やったり、千住の尾花で鯉の洗いを肴に古い時代の指揮者の話をするのは無上の楽しみでした。人を知ることは新たな世界を知ることで、とても心を豊かにしてくれます。

 その先生も今は亡く、もう誰ともメンゲルベルクの話ができなくなりました。こうして書き物をしている間も、時々レコードを出しては、1940年のアムステルダムの時代を思いつつ演奏を聴いています。その音はとても深く、聞いていても、いくつもの記憶がよみがえってきます。そして今鳴っていた音が瞬時に消えて行きます。消えることの儚さを思うとともに、消えるゆえに心に価値を刻みます。芸術と言うものは身に染みてつくづく有難い宝物だと思います。