手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

澤田隆治先生

澤田隆治先生

 

 一昨日(5月16日)澤田隆治先生がなくなりました。享年88。 

 私が澤田先生から聞いた経歴を記憶の限りつなげて行きますと、澤田先生は富山県で生まれ、幼いころ、お父様の仕事(三井商船と記憶しています)、で、満州か大連に渡り、戦後日本に戻り、神戸大学を卒業し、大阪朝日放送に入ります。そこで与えられた仕事は、ラジオで素人の演芸番組を作ることでした。これが募集をかけるととんでもない数の応募があり、それを一人ずつ見て行くことがそもそもの仕事で、そうした中に、中学生だった横山やすし桂枝雀レッツゴー三匹の正司、ルーキー新一など、その後の演芸界のスターになる人たちがアマチュアでひしめいていたそうです。

 先生は、彼らの台本の手直しまで手伝ったり、番組に出られるように工夫し、番組のスターを作って行きます。と同時に番組自体も様々な工夫を重ねて視聴率も跳ね上がって行きます。

 番組が絶頂の時に、急遽、新規に出きたテレビ局に移るように勧められます。ここで、それまでラジオで培ってきた人脈を生かして、若いお笑い芸人を使って演芸番組を作って行きます。但し、テレビと言うものがどんなものかもわからず、ただ闇雲に番組を作ることになります。然し、社内を見渡しても、新聞社から出向してきた人、ラジオから出向してきた人など様々で、誰一人テレビの専門家などいなかったのです。

 そんな中、手探りで演芸番組を手掛けているうちに、マイクの前で落語を喋るとか、漫談を喋ると言うものが、余りテレビ的でないと言うことに気付いてきます。当時のマイクは、感度が弱いため、例えば落語が人物を仕分ける際も、上手(かみて)、下手を向いて、役を変えることを嫌い、「正面を向いたまま喋って下さい」。などと注文していた時代です。

 ところがこれをテレビに持ってくると、全くテレビ画像に動きが発生せずに、視聴者は動かない写真を眺めているのと同じで退屈に感じてしまいます。

 そこで先生は、「テレビには動きが必要だな」。と気付きます。お笑い番組は、テレビ開局以来人気がありましたが、ラジオとテレビで笑いがどう違うのかが制作者側が気付いていなかったのです。先生は、「テレビの求めている笑いは、素の語りよりも、むしろ喜劇なのではないか」。と気付きます。

 この時代の喜劇の大御所は、榎本健一古川ロッパ、関西では永田キングと言った人たちですが、大阪の放送局が、榎本健一を毎週招いて芝居をすることは、できた当初のテレビ局では予算がなさ過ぎて到底できません。

 そこで、大阪で下済み生活をしているお笑い連中を出すことを考えます。歌手志望の藤田まこと白木みのる財津一郎、素人演芸会のルーキー新一など、全くの新人ばかりを集めて喜劇番組を手掛けます。それがてなもんや三度笠でした。

 これが空前の大当たりをします。大阪のローカル番組で始めたのですが、たちまち全国放送になり、スポンサーの前田のクラッカーも全国的に売れるようになります。内容は歌あり、ギャグあり、立ち回りありで何でもありの30分番組ですが、出演者は一躍スターになって行きます。続いてごろんぼ波止場、スチャラカ社員など立て続けに喜劇を発表して、テレビの喜劇ブームを作ります。一時期は3つの番組の合計視聴率が100%に達し、100%男と異名を取ったそうです。

 やがて先生は、全国放送を作るのに大阪にばかりいては不便であると言うことで、東京に移ります。そして東阪企画を作ります。東京で、ズームイン朝、花王名人劇場などを手掛けます。

 

 花王名人劇場ではお笑いブームを予測して、横山やすし西川きよし明石家さんま、ツービートなどを起用して、一躍漫才ブームを起こします。漫才が大当たりしたことを幸いに、今度はマジックを育てようとして、ミスターサコーを起用し、その後ナポレオンズを育てます。

 その頃に私も何とか使ってもらおうと、何度か会社にお伺いして、接触を図りました。然し、はかばかしい結果は得られませんでした。何しろ、敏腕プロデューサーですから、人を近づけないような威厳がありましたし、生中なことを言うとたちまち論破され、否定されてしまいます。顔つきもライオンのような顔をしていて、恐ろしい人だったのです。そもそもが使われる立場と、使う立場の人ですから、芸人は何一つ意見が言えません。「この人に認められることは簡単なことではないなぁ」。と思いました。

 ところが、私が芸術祭大賞を受賞したときに、先生から電話がかかって来ました。

「いや、芸術祭と言うのはね、奨励賞や新人賞はなんとか取れるんやけどね、大賞と言うのは、落語や講談のような古典芸能以外では取れんのですよ。私はマジックの世界で大賞は永久に無理かと思うていたんや。

 僕も何度かお笑いの番組で芸術祭に参加したんやけどね、奨励賞までは取れたんや。でもね、大賞は取れなかった。それをあなたが全く個人で取ったと言うのはすごい。ぜひお食事を招待したい」。と言ってくれたのです。

 実際レストランに行くと、私の隣に先生が座って、付きっきりで話をしてくれました。以前にお会いしたときの先生とは全く別人でした。そして受賞をまるで自分事のような喜んでくれました。

 先生は、生涯かけて、お笑いの世界で番組を作ってきたのですが、笑いとか喜劇と言う世界がいかに世間で社会的地位が低いか。いや、世間どころか、テレビ局の中ですら、お笑い番組は閑職で、どんなに視聴率をとっても扱いが軽いことを常に嘆いていました。

「歌舞伎からは人間国宝が次々に出るけども、榎本健一さんや、森繁久彌さん、渥美清さんは国宝にはなれん。なぜかと言えば喜劇やからや。そうした点ではマジックも全く同じや。マジックをしている限り、国宝にはなれんのや。でもあんたはすごい。その殻を破ったのや。マジックの世界ではこのことのすごさがわかっていない。三度の芸術祭賞受賞なんて誰も取れん」。

「でも先生、私は、芸術祭賞を取るたびに、奇術界の先輩から嫌われて行きます」。

「それは僕も一緒や、番組が当たるたびに同僚から嫉妬され、邪魔ばかりされてきた。いわれなき中傷をいくらも受けた。若くして成功するものは常に周囲は敵ばかりや。でも負けたらあかん。悪口言う人になるよりも、言われる立場の人のほうが百倍も幸せなんや」。

 その後私のテレビ番組をいくつか作ってくれました。そして、私が大阪文楽劇場でリサイタル公演をするときにはプロデュースを引き受けてくれました。そのブログを書いているさ中、一昨日に死亡の知らせがありました。

 強面のプロデューサーが、実は人一倍悩み、苦しみ、仲間の嫉妬におびえ、指針のない人生を手探りで生きていたのです。偉大な先人に合掌。

澤田隆治先生終わり