手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 8

 私は池上で生まれ、12年間池上で暮らし、都合5回池上の町中を引っ越しました。母にすれば、子供が2人いて、家賃の更新のたびの値上げを求められるのは、辛かったのでしょう。安い間借が見つかればすぐに引っ越していたのです。

 一ノ蔵にいた時に、私と親父がよく散歩をした旧道に、ラジオ部品の店がありました。堤方橋を渡る手前の三角形の敷地に二階家が建っていました。細い三角で、およそ人が住めるのかどうかも怪しいほど薄っぺらな家でした。

 その家が売りに出ていたそうです。当時30万円です。今の物価にして15倍と考えても、土地付き、都内で450万円は破格に安いと言えます。とにかくそんな家でも、引っ越すたびの敷金礼金など払わずに済みますし、第一家賃がいりません。その分貯蓄に廻せます。30万円は母親が手に届かない価格ではなかったようです。母は横浜の親戚まで一軒一軒尋ねて借金の相談をしました。然し、どこも貸してはもらえませんでした。後々までもその家が買えなかったことを残念がっていました。

 私が小学校に入り、アパートに引っ越したときに、母は編み物をやめ、働きに出ました。大森駅ビルデパートの店員でした。そして駅ビルが終わると有楽町に行き、日本料理店の仲居をしていました。定休日は別の店の店員をしていました。正月の3日間を除くすべての日を働き続けていました。当時の女性の給料は安かったので、これだけ働いても普通の男性の勤め人とそう変わらなかったようです。

 私にすれば朝から晩まで編み物の機械ががーがー騒がしく鳴っていた生活から解放されて、すっきりしましたが、家の中は誰もいなくなってがらんとしてしまいました。

 親父はいましたが、私が朝学校に行くときは寝ています。そして帰って来るとまだ寝ています。親父は用事のない日は競輪か競馬、パチンコか、仲間と麻雀に出かけます。

 私が後年、北野たけしさんや、仲間の芸人から、「あんな面白い親父さんと一緒に暮らしていたのに、何でお笑い芸人にならなかったの」、と、よく聞かれましたが、私が親父に憧れるわけはないのです。

 お笑い芸人の寿命は短く、終わってしまえば何一つ残らない人生です。ギャラは安く、一軒の家も残せません。時代が過ぎてしまえば、仲の良かったプロデューサーまで冷たい目であしらわれ、どこにも行き場がないのです。仕方なく池上の町中で博打をして遊んでいます。仕事のある時には、浅草などに出かけ、これもまた芸人仲間と博打をしています。全く先の展望がないのです。それを見ていて、親父の後を継ごうとはとても考えられなかったのです。

 親父はいつでも私と一緒にいたかったようです。しかし親父の行くところは悪い場所ばかりです。競馬場や、競輪場にまで連れて行きます。母親が晩に、「今日はパパとどこに行っていたの」。と私に尋ねると、幼い私は、「お馬の運動会に行ったよ」。と答えたそうです。

 それでも私はよく親父に連れられて、寄席や、演芸場や、余興のイベントの楽屋に連れて行ってもらいました。お陰で、幼い時から古今亭志ん生師匠や、柳亭痴楽師匠、コロムビアトップ・ライト師匠等の芸を見ることが出来ました。

 親父が楽屋で博打をしている間も、私を客席に座らせておくと、何時間でも芸を見ていたそうです。そんな様子を見て親父は、私が芸能が好きなことを知り、楽屋に連れて行くようになります。兄が、一切楽屋に入りたがらなかったのとは全く対照でした。

 私は大変ないたずら小僧で、何か人が驚くようなことをいつもしていました。然し、演芸を見るときと、本を読むときには熱心に時間を忘れて楽しんでいました。まだ幼稚園の頃でしたが、私の兄が買ってきた年鑑と言う厚い本がありました。これは世界中の国と言う国の経済力や、軍事力、生活風土などが事細かに書いてある百科事典です。幸いなことに子供用でしたので、解説の要所要所にマンガも書かれているし、全てにフリガナが振ってありました。

 私は母親や兄に平仮名を尋ねました。初めは只知っているひらがなを探すのが面白く、「し」の字や「つ」の字を探して喜んでいるようなレベルだったのですが、「し」の次に「ます」。が来ると、しますと読めるのが面白く、徐々に文章が読めるようになります。夢中になって眺めていると、その本がとんでもない知識の集大成であることに気付きます。幼稚園の間に、暗記ができるほど年鑑を読みふけりました。

 幼稚園児であるのに、首相が岸信介であることを知り、その人が出っ歯であることを漫画で知りました。韓国が李承晩ラインを敷き、日本の漁民が苦しんでいることを知ります。ソ連アメリカが世界の二大大国で、互いに政治体制が違うことを知りました。何一つ理解はできませんでしたが、とにかく丸暗記をしたのです。

 祖父母の家で、その知識を披露したところ、父の妹たちは驚き、「この子は兄さんに似たね」。と言いました、兄さんとは、親父の弟で、その当時、大学の助教授になっていた人です。ここで私の才能を上手く生かしてくれれば、私も大学教授になれたかもしれません。しかし親父は芸人の仲間を作りたくて、私をおかしな場所にばかり連れて行きます。結局私は芸能に行くことになります。

 

 親父は、仕事が少なくなると、人の台本を書くようになります。漫才や、落語家の台本を書き始めます。特に柳亭痴楽師匠が当時、ラジオやテレビの司会を何本も引き受けていて、毎週番組の冒頭に、2,3分週刊ニュースのような解説を笑いにして語っていました。親父はラジオ番組一か月分4本の冒頭ネタを痴楽師匠の家に行って、一日で書き上げていました。そこには私も一緒に出かけました。鶯谷の駅前の路地を一本入った静かな住宅街の日本建築の家で、門から飛び石を伝って玄関に入ると、でっぷり太ったな痴楽師匠が和服で待ち構えています。

 恐らく昭和35,6年のことだったと思いますが、その家には何でもありました。テレビも、ステレオも、冷蔵庫も、暮らしの仕方が私の家とは明らかに違うことは子供が見てもわかりました。

 親父は、座敷に着くと、原稿用紙を畳に広げ、寝転がって原稿を書き始めます。痴楽師匠の前で寝転がれるのは親父だけです。痴楽師匠は、親父に気を使い、水割の入ったグラスを親父の脇に置きます。そして私に、「あなたは、オレンジジュースがいいかな」。と言って、ジュースを持って来てくれます。痴楽師匠は正座をして、じっと親父の原稿のできるのを見ています。その時私は、「親父も早くこういう生活をしてくれないだろうか」。と思いました。

 

 親父は、半ば芸能を諦めかけていたのですが、救いの人が現れます。条あきらさんです。お笑い芸人で、親父の才能に目をつけコンビを組みたいと言って来ます。親父も、仕事の少ないボーイズに未練はありません。話に乘り気になります。

 この条さんと言う人は、まじめで、人柄のいい人でしたが、自分自身が芯に立ってお笑いをしてゆく人ではありません。親父のような飛び離れた才能を持った人を支えることで生きて行くタイプの人です。ようやく親父は良き理解者を見つけたのです。

続く