手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

島田晴夫先生を偲ぶ会

島田晴夫先生を偲ぶ会

 

 10月17日18時から、竹橋の如水会館日本奇術協会主催の、「島田晴夫先生を偲ぶ会」が催されました。偲ぶ会では私に挨拶をしてほしいと頼まれています。私は15年前に「タネも仕掛けもございません」と言うタイトルで、4人のマジシャンの人生を書いて本に出しました。初代引田天功、アダチ龍光、伊藤一葉、そして島田晴夫、4人のマジシャンの人生をたどって行くことで昭和の芸能を語って行こうとする内容でした。その中で唯一現役で活動していたのが島田晴夫師でした。

 その島田師生が今年4月に亡くなりました。思うことは様々です。挨拶をすると言うのも何かの縁ですので、朝から、島田師の追悼原稿を書き始めました。資料はありますし、話は簡単にまとまるだろうと想定して原稿を書き始めたのですが、まとまりません。余りに伝えたいことが多すぎるのです。

 この日は昼に踊りの稽古に行く予定でしたが、稽古はキャンセルしました。

 

 島田師の人生には大きな5つの転機がありました。師の生まれは1940(昭和15)年。幼いころは、東京から新潟と生活を転々とし、15歳で高校に入るため東京に出て来ます。そこで東横デパート(渋谷東急デパート)でマジックに出会います。

 第一の転機は、1955(昭和30)年、デパートでマジックに出会い、八つ玉でデビューし、一躍奇術界で知られる存在になり、その後、鳩出しをマスターすることでスライハンドの名手として活躍した時代。ナイトクラブに出演して、マスクの良さと鳩の技で大人気、然し、兄弟子の引田天功が大人気で、何をやっても天功の下に置かれ、大きく飛び出すチャンスがないため、海外に出ようと考えます。

 折から東宝のダンシングチームと一緒にオーストラリアで公演があり、初めて海外の観客に接した感動が忘れられず、東京に戻るとすぐにオーストラリアに戻る算段をします。

 1965(昭和40)年。オーストラリア行きの貨物船に乗って、片道切符でオーストラリアに向かいます。ここからが第2の転機です。仕事は順調だったのですが、職業ビザのないまま仕事をしていたため、捕まって強制送還になりかけたのですが、現地で知り合ったディアナに助けられ、ディアナと結婚することでパスポートを手に入れます。師にはこの後も不思議な幸運が付き纏います。

 オーストラリアで5年。舞台を経験しますが、そこから先に大きな成功が見えず、メキシコに渡ります。メキシコならアメリカと目と鼻の先です。ここで活躍すればアメリカに行くチャンスがあると考えたのですが、チャンスが来ません。

 劣悪な仕事が続きます。やむなくヨーロッパに渡り、イギリスフランスでステージの仕事を探します。然し、鳩出しマジシャンはヨーロッパに吐いて捨てるほどいます。全く相手にされません。やむなくメキシコに戻ると転機がやって来ます。きっかけは欧州の土産物屋で買った和傘をいろいろいじっているうちに傘出しの手順を編み出したことです。メキシコのテレビで演じると大好評でした。やがて1971(昭和46)年。アメリカのミルト・ラーセン(マジックキャッスルのオーナー)との接触ができて、ロサンゼルスで催されるイッツマジックに出演が決まります。ここからが転機の3番目です。

 アメリカに渡ってからはビルとミルトのラーセン一家の協力により、マジックキャッスルの出演も出来て、市民権も手に入れ、安定した活動が出来るようになります。数多くのマジシャンとの交流が出来て一躍名前を知られるようになります。以後、傘出しと鳩出しの二作でアメリカ中で大活躍します。

 様々なショウを獲得したり、ラスベガスの出演を果たしますが、その後、ディアナと離婚、ディアナ側に付いたマジックキャッスルのオーナー婦人アイリーンとの関係も悪くなり、一時期四面楚歌になります。これが第4の転機。

 酒浸りの人生になり一時期はこれで終わるかと言うときに、又も師を救う人が現れます。キーリーさんです、彼女は師のアシスタントを手伝い、生活の管理もし、師を助けます。ここから、師の芸が大きく変化をします。これ以降が第5の転機です。

 1990(平成2)年頃。師の演技が深まって来たと言う噂が流れて来ました。何が変わったのか、師の鳩出しは何十回も見ています。それを超えていいと言うのはどういうことか。私は興味を持ち、師を日本に招き、SAMジャパンの九州大会のゲストを依頼しました。

 

 さて、話は長くなりましたが、この時の舞台は私にとっても忘れることのできない舞台でした。師の手わざの演技が芸術に昇華した瞬間の演技でした。「あぁ。マジックも演じ手によっては芸術になり得るのだなぁ」。と思いました。マジックをマジックとして見せず、淡々と演じる姿は素晴らしいものでした。この事はブログでも何度か書いていますので割愛します。ただ一言申し上げておくと。

 昔から、私は、師の演技から、時折見える寂しさが気になっていました。師は、口を大きく開けて強烈な笑顔を作るため、そのあくの強い笑いに紛れて、そのあと真顔になった時や、真顔から客を見つめる瞬間に見せる、なんとも言えない寂しい表情に気付かない人が多いのですが、私は昔から気づいていました。

 恐らく、片親に育てられ、貧しく、友人も少なかった少年の頃のつらい暮らしをしていた時の顔が一瞬見えるのです。こうした表情は、多くの芸人の中によく見られます。芸人芸能人は派手で華麗な仕事をしていながら、心の中は思いのほか暗い人が多いのです。有名なタレントですら、時折悲しい表情をします。師も同じでした。

 私はそのことを偲ぶ会で伝えました。そして、その寂しさが、晩年、男の孤独に昇華したことを伝えました。男の万感の思いを孤独に変えて、耐えている姿が実にいい顔になっているのです。九州でこの師の表情を見たときに、「あぁ、先生はこの域に到達したのだなぁ」。と感じました。こうした境地は、先代の引田天功さんも至らなかったですし、チャニング・ポロックでですらなり得なかったのです。

 「長生きをすることが勝利だよ」。と、師はよく言っていましたが、人より長く生きたことで芸が一回りも二回りも大きくなったのです。これによって、晩年はアジアでは伝説のマジシャンになりました。そして昨晩も120人以上も日本中から師を偲んで愛好家が集まりました。濱谷堅蔵さんがまとめた貴重な映像も素晴らしい出来でした。司会の古谷敏郎さんはNHKのアナウンサーでありながら、島田師のファンで、率先してこの晩の司会を務めてくれました。日本の奇術界の厚みを感じさせる会でした。奇術協会は協会のあるべき姿を見せました。奇術界のコモンセンスを見せた会でした。献杯

続く