手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

スライハンドはなぜ衰退したのか 1

スライハンドはなぜ衰退したのか 1

 

 スライハンドマジックは、19世紀の末から徐々に人気が広がって行き、やがてマジックの花形に納まるようになって行きました。20世紀に入って数多くのスターを生みます。ネルソンダウンズや、デイビッド・デバンド、若いころのサーストン、カーディーニ、或いは石田天海など。

 第二次世界大戦以前は、彼らの仕事場はボードビル(演芸場)でした。ジャグラー、アクロバットなど、一晩に5本6本の芸能人と共にボードビルに出演していました。こうしたショウは欧米の各都市で流行していたのです。

 それが第二次世界大戦以降、ボードビルは急激に衰退します。衰退の原因はテレビの台頭です。多くの芸能人は仕事を失い、随分と苦労したようです。然し、やがて、ナイトクラブや、キャバレーが発展してくると、アルコールを提供する社交場の中で、ジャズバンドの生演奏と共に、演芸が求められるようになります。

 ナイトクラブでは、ホステスとお客様との会話が主流ですから、音楽にしても、演芸にしても、あまり大きな音を使った激しい芸能は好まれません。そうした中で、スライハンドは喋ることをせず、音楽に乗せて大人しく進行する芸能のため、ナイトクラブでは安定した人気を保っていました。それは逆に言えば、可もなく不可もなく、邪魔にならない芸能だったのです。

 然し、そんな中で衝撃的なマジックが現れます。鳩出しです。無論、それまでもマジシャンは、鳩や、アヒル、ウサギなどの小動物を演技のお終いに取り出す人は大勢いました。ところが、1960年になって、チャニング・ポロックと言うマジシャン(イタリア系アメリカ人)が出現したことで、スライハンドの世界が180度変わってしまいます。

 彼はマジシャンが演技のお終いに取り出す鳩を、演技のオープニングから、シルク一枚を改めて、中から鳩を出現させました。それが次から次と8羽も出てくるのです。シルクと言う限られたスペースの中から生きた鳩が羽ばたいて出現するのですから、その強烈な演技は、忽ち世界中の話題になりました。

 当然の如く、その後、鳩出しの手法を真似するマジシャンが現れ、1960年代中頃には、世界中のマジシャンが鳩を出すようになります。つまり、従来のカードや玉が主流だったスライハンドがすっかり鳩一色になってしまったのです。

 実はこのことが既にスライハンドの限界を超えてしまったのです。スライハンドと言うものは、密かにスチール(ネタ取り)を行い、それを妖しいものでないように見せるために、パス(右手、左手を改め)、パーム(物がないように見せる動作)をして、その上で物が出現します。

 そのため、スライハンドマジシャンの使う小道具は、握り拳より小さなものばかりで、掌に隠せる範囲のもので不思議を行っていたのです。それが、鳩を出すとなると、仮にうまくスチールしてきたとしても、左右の手を改めたりは出来ません。掌に納まらないため、パームも出来ません。つまりスチールをしたらすぐに出さなければなりません。

 如何に現象が派手だと言っても、スライハンド本来のパスやパームを使えない現象が、従来のスライハンドを超えたマジックかどうか。当時の知識あるマジシャンは困惑したでしょう。実際、天海師は、鳩出しと言うマジックに疑問を持っていたようです。いきなり大きな鳥が出てくるため、観客は喜びますが、結局これはこけおどしではないのか。マジックが持つ品位とか技術と言うものが失われ、余りにダイレクトではないか。と、怪訝な思いで見ていたようです。

 これ以降、より大きな素材を扱うスライハンドマジシャンが増えて行きます。島田晴夫師の傘出しなどはその極地でしょう。一瞬に作傘は強烈な印象を与えますが、それだけに演技を続けて行くとお客様に出所を読まれてしまいます。手順に限界が出てしまうのです。

 この事は島田師自身も認めていて、「あれは知らない土地で自分を売り込むための演技だった」。と述懐していました。それゆえに、晩年傘出しを褒められることをあまり喜んでいなかったのです。

 また、ジャンボカードのプロダクションも同様です。タネがばれるかばれないか、ぎりぎりのところで、カードを出して行くことが、マジックとして成立しているのかどうか。むしろタネを犠牲にしてでもインパクトを全面に押し出すスライハンドがどんどん出て来ます。

 マーカ・テンドーが晩年に仕事がなくて苦しんでいるときに、私に、「自分は何をどうしたらいいのか」。と尋ねて来ました。それに対して私は、「まずジャンボカードのプロダクションはやめなさい。あれは種明かし以外の何物でもない。それからフィニッシュのファンテンカードをやめなさい。モーターでカードを飛ばしてもテクニックにはならないから」。と言いました。彼はそれを納得して聞きつつも、もう自分がそれを引っ込めて別手順を作ることは出来なかったのです。

 1980年代のスライハンドはかなり荒っぽいスタイルを選択して、どんどん派手で大きな素材を使うようになって行きました。あのノームニールセンさんですら、世の中の流れに沿うべく、グランドピアノの浮揚を考え出して演じていました。結果は、彼の上品な持ち味が失われ、何ともコメントできない作品になっていました。

 私はそうした時代に生き、スライハンドマジシャンが変貌してゆく過程を見ているうちに、「あぁ、スライハンドは終わったなぁ」。と思いました。

 スライハンドと言うものは、大きな素材を使ってはいけないのです。スライハンドの技法や種仕掛けには、大きな素材に対応できるものが何一つないのです。それを無理無理大きな素材を使えば、それは種明かしにしかならないのです。

 スライハンドを無理に大劇場に持ち込むのはスライハンドの持ち味を失うことであり、そこにインパクトやショウアップを求めることは、最早スライハンドではなくなることなのです。

 しかし1980年代以降は、スライハンドはその持ち味とは真逆の方向に進みます。音楽は大音響になり、演技は早くなり、マジックの受けが弱いと判断されると、火薬を使ってドカン、ドカンと効果音を出すようになります。ドカンと鳴ればマジックは優れたものになるのでしょうか。ここにおいてスライハンドは百年の歴史を終えたのです。

 本来ならスライハンドは、より内省的に、マジシャンの心の内側を語って行くような芸術になって行かなければならなかったのに、それとはまったく真逆の道に踏み込んでしまったのです。結果としてスライハンドは多くの一般支持者と愛好家を失ってしまったのです。

 その後に、韓国勢などが出て来てひところは賑わいましたが、多くの演技は、一見芸術的に見えても、私的でナルシズムに満ちており、その舞台は、薄暗く、背景も黒、衣装も黒、何もかも黒、そして、絵柄のない白や赤いカード。何か意味を持たせようとしているように見えても、自分の世界にこだわるばかりで、その結果が何も観客に訴えようとしていません。それを見ると、ますます、「あぁ、スライハンドは終わったなぁ」。と思いました。

続く