手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

FISMの花の時期

FISMの花の時期

 

 今から45年前のブラッセル(ベルギー)で開催されたFISM(3年に一度の世界マジック大会)を見に行った時は、何もかも驚きの大会でした。何しろ私は、海外のコンベンション初参加で、2000人以上が集う世界大会が5日間開催され、そこに出演しているマジシャンも、また見に来ているマジシャンも、ビデオや、テレビで見た人ばかり、こんな人たちに会えるだけでも嬉しいのに、直接話が出来て、時にマジックが習えて、もう連日、楽しくて楽しくて夢のような一週間でした。

 然し、マジックの歴史を大きな流れで見ると、1970年末は、もうナイトクラブの時代が去り、マジシャンがどんどん仕事を失って行った時代でした。

 第二次世界大戦前までは、ボードビルが盛んな時代で、世界中どこの都市にも劇場(ボードビルショウ=演芸場)があって、多くのマジシャンは、ジャグラーや、漫才、漫談などと一緒に、ボードビルに出演していたのです。それが世界大戦終了以降、急激にボードビルが廃れ、代わってナイトクラブやキャバレーが流行り出します。

 そこではホステスとダンスをして、アルコールを飲んで、ショウを見る。というスタイルが連日繰り広げられます。お客様自身がダンスをしたり会話をすることが目的で、ショウはその邪魔をしない程度の内容が求められました。そのため、ショウの内容は10分以内、音楽(生バンド)を使って、テンポの良い、見飽きのしない内容のものが求められ、多くは、歌、ジャグリングや、マジックが喜ばれたのです。

 スライハンドの基本的な形式はボードビル時代から引き継がれてきて、10分弱のスライハンド演技は、ちょうどナイトクラブのニーズに嵌ったのです。世界中を回るため、大きな道具は持ち歩けません。知らない国に行くために言葉の必要なものも駄目です。最低限トランクに納まって、10分以内、音楽に乗せて、マイムを使って内容の詰まった演技をしなければなりません。

 そうなるとスライハンドはまさに当時のショウビジネスの需要を満たす内容だったのです。ボードビルが廃れた後も、スライハンドは生き残りの道があったわけです。ところが、初めに述べましたように、1970年以降、世界的にナイトクラブが廃れて来ます。廃れる理由はいろいろあったと思いますが、男性中心の娯楽が通用しなくなってきたのでしょう。

 アルコール、ホステス、生バンド、ショウ。という男性の好みから、徐々に、家族とともに生活を楽しむ時代に変わって行ったのです。結果ナイトクラブは時代から外れて行ったのです。そのため、マジシャンを始めとして、実演で生活して行くタレントが暮らしにくくなって行くのです。

 それはマジシャンだけのことではなく、特に打撃を受けたのはミュージシャンです。どこのナイトクラブにも生バンドが7,8人はいたものが、ナイトクラブの衰退とともに、バンドの需要がなくなり、ミュージシャンは失業して行きます。

 ミュージシャンにとって厳しかったのは、音響機械が発達して、生演奏に近いレベルの音が、レコードやテープで再生できるようになったことです。マジシャンやジャグリングは、まだパーティーや、イベントの仕事でこの先も仕事を得て行けたのですが、ミュージシャンは、見事に消えて行きました。

 

 さて、話を戻します。私が、ブラッセルの世界大会を見て、綺羅星の如く有名なマジシャンが集まっていたのを感動の目で見ていたことと、彼らがブラッセルに集まって来ていたことは、随分思惑が違っていたのです。

 つまり、彼らは新しい仕事場を探していたのです。無論顔が知れているようなマジシャンならば、あちこちから声かかって、コンベンションの出演や、海外のテレビ出演の話もあったでしょう。彼らは、コンベンションをチャンスの場と考えて、仕事を探していたのです。

 私はそこにたくさん集まっていたマジシャンを眺めて、「ヨーロッパにはものすごい数のマジシャンがいるものだ」。と驚いていました。

 ところが、ブラッセルの翌週、私はパリに行き、仲間のマジシャンがナイトクラブに出演するのを見せてもらいました。そのナイトクラブにはお客様がいなかったのです。広いスペースにほんの数人が酒を呑んでいます。当然ショウは盛り上がりません。私は、友人に、「いつもこれくらいの数なの?」。と尋ねると。「そう、人が少ないんだ。もうナイトクラブの時代じゃぁないのかも知れない」。と言いました。

 ブラッセルのマジック大会の繁栄と、実際、パリで見たナイトクラブの衰退を見て、私は複雑な気持ちになりました。その時、「いま日本に帰れば、まだキャバレーの仕事は山のようにある。でも、いつか日本もパリと同じようにキャバレーはなくなる。今のことを繰り返していては仕事はやがてなくなる」。そう思ったのです。

 ブラッセルに行くまでは私はスライハンドの名手になりたかったのです。ブラッセルの大会の廊下でフレッドカプスに出会ったときに、感動しつつ、喉元まで、「弟子にして下さい」。と言おうとしていたのです。然し、言い出せませんでした。これが私にとって運命の分かれ道だったと思います。

 同時に、この時が、マジックの歴史の転換点だったように思います。10分以内の手順を一つ持っているだけで生涯生きて行ける時代と言うのは、もう終わりを遂げていたのです。はっきり時代は動いていたのです。 パリのナイトクラブがその証でした。

 フレッドカプスは素晴らしい。彼はいい仕事をたくさんやった。然し、仮に私がその演技を模写したとしても、もう栄光の恩恵を受けることはないのです。

 日本に帰ったなら、なるべく早くにナイトクラブの仕事から足を洗おう、そして、次の舞台を探して行こう。スライハンドをいきなり捨てることはできないけども、スライハンドにばかり頼ろうとしないで、もっともっと多くのマジックを学んで、そこから手順を作って行こう。そんなことを飛行機の中でひたすら考えていました。1979年は、私にとって大きな転換の時代でした。同時にマジック界にとっても大きな転換期だったのです。ブラッセルとパリはそのことを教えてくれたのでした。

続く