手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

カードマニュピレーション 1

カードマニュピレーション

 

 昨年10月に行ったリサイタルで、私が舞台上でカードマニュピレーションの一部を演じたところ、私がカードを演じることを意外だと思っていた人が多く、「ああいう演技もするんですねぇ」、としみじみ言われました。

 私が10代の頃(今から50年前)、は、マジシャンは普通に、カード、四つ玉、ゾンビボール、鳩出しなどを稽古して、そうした手順を作り上げ、舞台で演じていました。

 昭和40年代は、キャバレーやナイトクラブは隆盛で、タキシードや燕尾服を着て、背丈があってみた目が良くて、カード四つ玉がそこそこうまくて、さらに鳩の手順を持っていれば、技の巧いへたはさほど詮索されず、すぐにでも仕事が来て、毎月少なくとも10日以上の仕事を手にれていたのです。実際私がそうだったのです。

 この時代は、若いマジシャンなら、技物のマジックが出来ることは当然で、特に四つ玉とカードはそのマジシャンの技量を見る基準になっていたのです。

 

 ある意味いい時代だったと言えます。燕尾服にカードなどと言う定番物が決まっていて、マジシャンとは何かという基準がはっきりしていて、それが、マジック界の常識だっただけではなく、芸能事務所にも、ナイトクラブのオーナーにも、共通した価値観、美意識として認知されていたのです。

 私が燕尾服を着て、舞台袖で出番を待っていると、ボーイが傍に寄って来て、「品がありますね」とか、「かっこいいですね」。とか言って褒めてくれました。それは、当時の小倉だの、旭川のと言った地方の街で、燕尾服を着ている人などまず見ることはありませんでしたから、見た目にも高級感があって、憧れの対象だったのでしょう。

 

 スライハンドの歴史はそう古くはありません。19世紀の中ごろに至ってボードビル(演芸場)やナイトクラブが流行り出し、そこの中の一芸能としてもてはやされるようになります。

 19世紀になってヨーロッパでは鉄道が普及し、都市間の移動が盛んになりました。それにつれてマジシャンも近隣の国々に出張してショウを見せる機会が増えて行きました。

 列車移動となると、そう多くの道具を持ち運ぶことは出来ません。スーツケース一つで、テーブルから小道具から衣装まで詰めて移動が出来るものが求められるようになります。

 さらに、それまで母国語で喋りながら演じていたマジックでは、隣国に行くと、言葉が通用しなくなり、細かなニュアンスが伝わりません。そこで、言葉を発しなくても伝わる芸能が模索されるようになります。そうした結果、音楽を流しながら、マイムを取り入れて、ほとんど道具らしい道具を使わずに見せられるスライハンドマジックが考案されるに至ります。

 

 いつのころからスライハンドが発展したのかと考えると、それが職業として成り立つのは1800年代の末頃ではないかと思われます。イリュージョニストのサーストンが若いころはスライハンドのカードの名手だったと言う話は有名で、その後イリュージョニストになって大成しますが、カーディシャンとして活躍していた時代は恐らく明治末年頃のことでしょう。

 その時期に松旭斎天一は一座を引き連れアメリカ欧州と公演して回っています。その時、養子の天二(てんじ)は、当時流行していたスライハンドに魅せられ、アメリカに残り、修行をしてカードや四つ玉の技法を取得して明治43(1910)年に帰国をします。その天二が演じたスライハンドが恐らく、日本の大きな劇場で演じたスライハンドの初演だったと考えられます。

 天二の帰国を喜んだ天一は、早速一座全員を集め、天二が学んだ様々なマジックを舞台の上で見たのですが、ことスライハンドに関する限り、パーム(握り隠して持つ)も、スチール(気づかれないように別の場所から小道具を掴み取って来る)も、パス(右手左手を改めながら、手に持った小道具を見せない技法)なども、どれも初めて見る技法ばかりだったために、まさに魔法の数々を真に当たりに見るようで、一同唸ってしまったそうです。

 

 この時天二は、四つ玉を演じています。空中から一つのボールが現れ、それが消えたり出たり、シルクに変わったりするうちにボールが二個三個と増え、四個になって片手の指の間に並んで、ポーズをとる。またひとつづつ減って行き、終わる。

 カードマニュピレーションは、一枚出し、連続ファンカードを演じ間に5枚カードを演じています。今日まで続く一連のカードマニュピレーションの手順は、明治末年で既に天二によって日本で公開されていたことになります。

 但しその演じ方は今日とは違い。小さな星形をしたスタンドに、カードが5枚飾られていて、そこから一枚ずつ抜き取って手の中で消して行き、それが今度は左手から出て来て、また、一枚づつ消して、すべて消えます。そして、何もなくなった星型のスタンドに指を指すと、そこから5枚のカードがパッと現れる、と言う手順だったようです。つまり、スライハンドと道具物の仕掛けを合わせて演じていたわけで、創世期のスライハンドは技法の未発達からか、こうした小さな道具物と一緒に演じることが多かったようです。

 

 そうした中でスライハンド(sleight of hand=手練)の演技を見せるわけですが、実際にスライハンドで手順を作ると言うのは簡単ではありません。多くのスライハンドの技法は、出す、消す、に終始し、どれもほんの一瞬の出来事です。

 それをいくら重ねて手順を作っても、1分2分を超えて演じることは出来ません。カードが次々に手先から出て来る演技も、何度も繰り返していれば単調になり、飽きが来ます。それを飽きさせず、不思議に、5分間も演じるとなると、極めて多くの知識と、それに見合う技法、演出が必要になります。

 そのため多くのマジシャンは先輩から技法を学び、自分流にアレンジを加えて手順を作って行くわけです。そこのところの苦労はまた明日お話ししましょう。

続く