手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ジェラルド・コスキー 2

ジェラルド・コスキー 2

 

 私がコスキーさんに会って、訪ねたかったことは、当時、天海さんは社会の大きな流れに抗することが出来なくなって帰国を考えたのか,或いは、病気で活動が難しくなったので帰国を考えたのか、どっちだろうかと言う点でした。

 実はアメリカでも第二次世界大戦前後から社会の様子が大きく変わって行き、それまでアメリカ全土にあって非常に賑わっていた、ボードビルショウ(寄席、演芸、演芸場)の人気が下火となり、劇場は閉鎖され、多くの芸人が仕事を失いました。

 代わって大戦後はナイトクラブが流行りだし、アルコールを楽しみながら、ショウを見るスタイルが主流となって、多くのボードビルに出演していた芸人たちは、ナイトクラブに移って行ったのです。

 具体的に言えば、カーディーニの時代はボードビルが主流だったのですが、チャニングポロックになるともうナイトクラブの時代になっています。カーディーニと同様に、ボードビルで活躍した天海師は、ナイトクラブに仕事場を変えて出演していたのか。それともナイトクラブを嫌って別の仕事をしていたのか。もう天海師の望むような仕事場は無くなっていたのか。

 そのあたりをコスキーさんに尋ねてみたのですが、実はあまりはっきりとした答えは返って来ませんでした。確実なことは、大戦後、アメリカ各地でマジック大会が頻繁に開催されるようになり、天海師は大会に引っ張りだこだったようです。内容もスライハンドですし、その腕は早くから認められていましたし、ステージも、クロースアップも出来る人でしたので、アマチュアの求める姿に合致していたのでしょう。

 然し、いかにマジック大会でもてはやされていたとはいえ、当時のマジック大会は規模が小さかったので、謝礼も大きな金額は支払えなかったでしょう。やはりベースとなる舞台が続く間に大会に出るようでなければ、生活して行くのは難しかったはずです。

 ボードビルでも、ナイトクラブでも、天海師は60を過ぎたあたりから、アメリカ各地を3日ないし6日公演しては移動してゆく仕事に疲労を感じていたのではないかと思います。アメリカでは日本とは比べ物にならないくらい移動距離が離れていて、しかも、アメリカのショウビジネスは、交通費、宿泊費、食事代が全てギャラに含まれます。当然かなり高額のギャラをもらいますが、ボードビルの劇場閉鎖によって、次の仕事先まで一週間も二週間も日程が空くこともあったでしょう。そうすると、たちまち宿泊費や交通費で赤字が膨らみます。徐々に仕事が難しくなって行ったのではないかと推測されます。

 また、ナイトクラブは、アルコールを呑んでお客様が遊んでいるため、ショウの内容は、よりインパクトの強いものを求める傾向がありました。カーディーニも、天海も、軽妙に、テンポよく次から次とマジックをするのですが、その演技は小味で、大きな不思議、大きなインパクトと言うものはありません。そのため、ボードビルでは一級の扱いを受けていましたが、ナイトクラブでのマジシャン全体の評価はかなり低かったようです。

 ナイトクラブで大きく評価され、その後マジックの世界を変えたのはチャニングポロックでした。一枚のスカーフを手の中で揉んでいると、そこから鳩が出て来る。と言う演技は衝撃的で、デビューするや、アメリカでもヨーロッパでも引っ張りだこでした。

 ポロックがチャベツスクールを卒業して、ナイトクラブに出演するようになったのが1955(昭和30)年ころ。但し、初めは後年の鳩出しとは少し違うものだったようです。

  私が興味を持っているのは、ポロックのデビューと、天海師の引退時期との関係で、ほとんど時期が一致しています。この間にアメリカのショウビジネスに何があったのか。直接ポロックの影響ではないまでも、同時期に、やたら鳩を出すマジシャンが増えて、鳩を出さなければギャラが高く取れない、とか、もっと、もっと刺激のつよいマジックが求められるようになった可能性があります。

 天海師にすればボードビルで、それまで演じていた演技がすんなり喝采を持って受け入れられたなら、何ら問題なく仕事先をナイトクラブに移して行ったはずです。然し、実際はそうではなかったようです。ここは興味深いところです。

 

 無論、鳩を出すマジシャンはポロックだけではありませんでしたし、そもそも鳩出しはポロックが元祖なわけではありません。1940年代以降から、多くのマジシャンが、ウサギに変わって、扱いやすい鳩を使うようになっていました。

 そうしたマジックと入れ替わるかのように、ボードビルの衰退が、多くのマジシャンを失業させ、その中のかなりのマジシャンがマジック大会に活路を見出して行ったのは事実のようです。今日、多くのマジック愛好家がスライハンドと考えているようなマジックは、ボードビルのマジシャンが、マジック大会に入って来て、伝えたマジックで、アマチュアの間でスライハンドを演じる人が増えたのは、実はボードビルで鍛えた老齢なマジシャンから習った演技でした。

 このせわしなくマジシャンが入れ替わって行く時期に、天海師は引退をして帰国をします。天海師は、アメリカで活動している間、年金に加入していましたので、帰国後は日本にアメリカから年金が支給されるようになりました。当時の物価で行くなら日本とアメリカでは数倍物価が違っていましたので、天海夫婦は日本で楽に暮らして行けるだけの収入がありました。

 天海師は、その年金で穏やかに暮らして行こうと考えていたようですが、日本では天海師を待ち構えていたかのようにテレビ出演が始まります。

続く