手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

道具の話

道具の話

 

 今、マジックの道具は、マジックショップで簡単に手に入りますし、ネットで検索すれば、翌日には送られて来ます。品質を問わなければ100円ショップでも入手可能です。マジックの種仕掛けを知ると言う行為は、資格を問われません。僅かな費用を支払えば誰でも入手可能なのです。

 ところが、昭和20年代30年代は、道具の入手はとても困難で、先ず売っている場所がありません。当時のプロは指導も販売もしませんでした。習いたければ弟子入りするか、伝手を頼って教えを乞う以外なかったのです。書籍もそう大したものはなく、マジックの種仕掛けと言うものは、全く未知の世界だったのです。

 戦後すぐくらいに、ダーク大和師は、プロをめざして活動をしていたのですが、マジックの道具の入手が困難で、例えば、リングのマジックをしたいと思っても、リング自体が手に入りませんでした。当時のプロのリングの演技を見て、種の構成は分かったのですが、道具がないために稽古が出来なかったそうです。

 やむなく、針金の太いものを使って、輪を作り、はんだ付けでつなぎ目をつないで、6本のリングを作ったそうです。出来上がったリングは手仕事のものですから、輪はいびつでしたし、つなぎははんだですから、お客様が強く引っ張れば、伸びたり、曲がったり、壊れてしまうような出来だったそうです。実際、ダーク師はその手作りのリングを舞台で使っていたらしく、当時サラリーマンだった小野坂東さんは見ているそうです。道具を見て執念を感じたと言います。

 その後もダーク師は、物を作るテクニックをマスターして、仲間内の道具作りを熱心にやっていました。鳩の打消し箱、ローラーバト、鳩の小屋に風船を入れると風船が割れて鳩が出てくるだとか、珍しい仕掛けを随分作っていました。

 一つ二つ作るのは面倒らしく、作るときは、一度に10組くらい作っていたようですが、欲しいマジシャンが集まらないときには私にまで電話をしてきて、「ローラーバトを作ったんだけど、いらないか」。と聞いてきました。その都度私はどんな出来なのか、ダーク師の家に尋ねて行って、品定めをして買っていました。

 昭和40年代になると、テンヨーや日本奇術連盟、天地などのメーカーが、ある程度のレベルのものを販売するようになり、手製のリングなどは作る人はいなくなりましたが、それでも、舞台物の道具は、入手困難で、仲間内の情報から製作者を探して、分けてもらうような状況でした。

 

 私が18の時、小田急デパートの天地というメーカーでアルバイトをしていた頃、木製の四つ玉で、中が、くりぬいてあり、軽くて、ボールは丸く、シェルも薄くて、素晴らしい出来の物を作っている人がいる。と言う噂を聞きました。

 そんなボールならぜひ欲しい、そこで、何人かの仲間から、注文を取って、早速入手希望を相手先に伝えると、ある日、何とも地味な人が売り場を訪ねて来ました。全く私と目を合わせません。暗くうつむいていて話しかけても来ません。

 しばらく売り場を眺めていて、お客様が去ったころ、おもむろに近づいてきて小声で、「三瓶だけど、四つ玉が欲しいって聞いたんだけど」。と言います。その様子がまるで麻薬の売人のようで、これからいけないものの取引が始まるかのような感じでした。

 小田急の売り場で、天地以外の商品の交渉をするのは問題ですから、すぐに休憩を取って、二人で喫茶店に行きました。

 三瓶さんは終始私と目を合わせることはなく、小声で、「自分のところで作っている四つ玉は、自分の親父がこけし職人で、その技術を使って作っているので、ボールは綺麗に丸い。一度丸い球を作って、それに穴をあけて、中をくりぬいてある、更にその穴に蓋をして、塗装をしている。

 そういうわけで、普通の四つ玉と比べると、三倍から四倍手間がかかっているため、値段が高くなる。それを了解してほしい。あなた(藤山)がそれを売って儲けることは構わないが、安くは売らないでほしい。サイズは2種類、色は赤か白、シェルは玉四つに2個のシェルが付いていて、もっと欲しいなら、別売りもある。それでいいなら、この値段で出せる。でも、余り大っぴらに販売したくはない」。

 話は聞き取れないほどの小声で、延々続きました。そのあと持参した四つ玉を見ると、そのクオリティの高さに驚きました。と同時に、どうしてこれだけの品物をもっともっと多くの人に宣伝しないのだろう。と不思議に思いました。

 この人は昔天地で販売をしていたそうです。その後、別の仕事に就き、四つ玉の販売は、半ば趣味でしていたようです。マジックのメーカーを作って、製作に専念するのは、更に数年後の話です。 

 それでも初めて三瓶さんに会ったときに、マジックにかかわると言うことが、まるで世の中で背徳行為をしているかのように見えました。決して表に出ることのない、裏家業に手を染めている人のように見えました。

 終始三瓶さんは私の顔を見ることはなく、自分自身を語る時でも、ディーラーをやったがうまく行かなかった。プロになろうとしたが、仕事は来ないし、自分の才能のなさを知った。等々、寂しく、冷たく、北風が吹きすさぶような話を延々しました。

 当時18歳で、これからプロになって、華々しく活躍してやろうと思っていた私に、三瓶さんは、意気揚々と進む道の脇から、悪魔が手を伸ばして私の足を掴み、地獄に引きずり下ろされたような気持になりました。

 三瓶さんが持ってきた。四つ玉はすべて買い取りました。そしてその場で支払いをしました。まさか全部買い取ってくれて、しかも、その場で現金になるとは思っていなかったらしく、何万円かの金を見て三瓶さんは驚き、別に売れなくてもいいんだと言っていた人が、初めて少し嬉しそうな顔をしました。

 「三瓶さん、私には仲間も、お客様もいます。このクオリティの商品ならきっと売れます。これからもちょくちょく連絡をしますよ、又、三瓶さんも他に新しい道具を作ったら知らせて下さい。買いますよ」。というと、三瓶さんはようやく少し明るい顔を見せて、初めて、「よろしくお願いします」。と言いました。

 聞くと私より8歳年上で、私の兄と同じ年でした。この人がどんな夢を抱いて、東京に出て来たのか、そして現実のマジックの世界がどんなものだったのかは知りません。それでも、ステージに上がろうとして、結果その道を諦めた人と、これからステージに出て行く者とが昭和48年にお茶を飲んで話をしていたのです。どんな話だったのか、微妙なところは全く覚えてはいません。然し、ふと今になってなぜか断片が思い出されます。思えば50年前のことです。

続く