手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

親日の国台湾

親日の国台湾

 

 台湾と日本は今は仲の良い兄弟のようにうまく交流をしています。なぜ台湾と日本が仲が良いのかと言うならば、日本が台湾を統治していた時代に戻って話をしなければなりません。

 台湾は日本が日清戦争に勝利したことで中国から割譲されました。当時の中国は、清朝の時代です。日清戦争の結果、台湾は日本の領土となったのですが、台湾に住む住民には、このことはまったく知らされていませんでした。全くあずかり知らぬ土地での戦争で、台湾が切り離されたのです。やがて日本の政府役人と軍隊が来て台湾統治を始めます。

 それまでの台湾は、清朝の役人がやって来て税金を取り立てる以外にはこれと言った民生を敷くこともなかったために、やくざ者や海賊がはびこっていて治安が悪かったのです。実際、台湾海峡は度々輸送船が襲われて、海外の商船は困っていたのです。

 それが日本が統治して、台湾は安定した発展をするようになります。元々気候が良い土地であるため作物もたくさん取れるはずなのですが、南部は湿地帯で、マラリア赤痢がはびこり、人が入りにくい土地だったのです。それが、八田弥一のような有能な技師がダム建設をして、湿地帯を美田に変え、それまで日本本土から米を買っていたものが、逆に日本へ米を送れるまでになって行きました。米、砂糖、後には機械部品までも台湾の産業になって行きます。

 日本が統治を始めた頃は、台湾の人口は300万人ほどだったものが、日本の敗戦のころには650万人にまでなっています。50年間で人口が倍になったのです。所得も日本並みになりました。

 日本は役所や病院、学校を建てて台湾人も日本人も分け隔てなく対応しました。軍人になることも、台北帝国大学(今の台北国立大学)に入ることも出来たのです。台湾の高校生は戦前に高校野球で甲子園まで来て戦っています。

 そうした点では、欧米の植民地政策とは違い、現地人を搾取しなかったし、差別もしなかったのです。多くの台湾人は、日本の統治のよって初めて舗装した道路を見たし、その道路も道幅が何十メートルもあるまっすぐな道を見て目を見張ったのです。

 台湾の鉄道は明治末には台北から高雄まで全通します。鉄道も自動車も、バスも走っていました。今では何でもないことですが、明治時代にこうした生活が出来たアジアの地域は、日本と朝鮮と台湾の3つの地域だけだったのです。

 台北市高雄市にはデパートもあり、エレベーターまで備えてありました。後に、国民党の兵士が台湾にやって来て、用もないのにエレベーターに何度も乗って喜んでいたそうです。

 

 それが昭和20年に日本が敗北すると様子が一変します。中国からやってきた兵士も役人も最悪の人たちだったのです。兵士は通りの商店の物を平気で盗み、金も払わない兵士ばかりです。警官はわいろによって犯罪者を平気で見逃し、役人はわいろで役所の事業を特定の業者に回します。廻された業者は儲けを抜くだけ抜いて、ずさんな工事をします。

 日本が統治していた時にはこんなことはなかったのです。山と積まれたコメや、麦や砂糖の倉庫を前に日本人は誰一人として盗みをするような役人はいなかったのです。

 1947(昭和22)年。これに怒った台湾民衆は各地で蜂起します。一時、台湾の民主化が成立するかと思われましたが、劣勢と見た蒋介石は、大陸から兵士を送り、たちまち台湾民衆を制圧します。これで台湾の民主主義は一巻の終わりです。

 やがて昭和24年に、大陸で国民党と共産党が戦い、国民党の蒋介石が敗れ台湾に逃れます。敗残兵を受け入れた台湾は大騒ぎです。それまでは台湾は豊な土地で自給自足のできる島だったのですが、そこへ、国民党の兵士と家族250万人が一度に台湾に乗り込んできたのです。650万の住民が、250万人もの人を養わなければならなくなりました。

 島内にいきなり飢餓が訪れます。国民党は、全ての決済を中華民国発行の札で支払おうとします。既に敗北して国が無くなってしまった政府の札で支払われても物の役には立ちません。国民党の兵士はまるでならず者で、全く統制が取れていません。

 台湾の民衆は、同じ中国人でありながら、民度の低さに唖然とします。

 つまり日本の統治時代には何でもなく行われていたことが、実は国民党の政治体制では何一つ通らないことを知り、自分たちはそうした独裁政治の国にいるんだと言うことを知ったのです。

 その後台湾では70年かけて徐々に民主主義を獲得し、現在に及んでいますが、決して簡単な道のりではなかったのです。よく、台湾と朝鮮半島では、日本に対する評価が真逆だと言いますが、それは特別日本が朝鮮に対して過酷な政治を敷いたわけではないのです。

 もし朝鮮が、日本の統治後に、ロシアが攻め込んで来て、大多数の朝鮮人をシベリアに送り込まれて強制労働をさせられ、朝鮮の農地をロシア人に取り上げられていたなら、日本の統治が如何に民主的であったかが分かったはずです。朝鮮人にとって、幸か不幸か、全く理屈の通じない独裁者に攻め取られなかったことが幸いだったのです。

 しかも、戦後になってアメリカから戻ってきて大統領になった李承晩は、元々、両班(りゃんぱん)と言う貴族階級の末裔でした。日本によって、朝鮮は奴隷制度が解放されました。奴隷を取り上げられて、四民平等になって一番困るのは、朝鮮の貴族階級だったのです。

 アメリカに留学していた李承晩がいきなり生活に困ったのは日本が平等政策を敷いたためです。そのため李承晩は日本人を目の敵にしました。更に、戦後、朝鮮に戻って来て、大統領になりますが、朝鮮の独立には何ら貢献していなかった自分自身の弱みを隠すために、日本に対してあることないこと言い連ね、教科書にまで嘘を書いて国民を教育しました。自らを戦う男を印象付けました。それが今にまで続いている、慰安婦や、徴用工の問題に続いています。

 今でも台湾の人の中で日本の治世を懐かしがる人達がいます。若い人の中にも日本を信頼している人たちは多いのです。同じ行為をしても感謝してくれる人たちと、悪口で返す人たちがいます。台湾の人が日本を信頼するのは、余りに悪い見本を見てしまったからです。

 東北地震の際に、サッカーの試合中「大震災おめでとうございます」。と書いた紙を掲げた韓国人がいました。先日中国のアナウンサーがテレビで、能登地震の際に、「放射能を垂れ流した報いだ」。と言いました。片や、台湾の人々は、今年正月の能登地震で、すぐに義援金募集をして一週間で10億円の寄付を集め送ってくれました。

 悪く言う人、支援してくれる人、さてどっちの人を日本人は仲間と思うでしょうか。感謝してくれとは言いませんが、悪口を言うのはやめたらどうでしょうか。

続く