手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

台風7号

台風7号

 

 結局台風7号は、紀伊半島に上陸して、関西地区を舐めるようにして、若狭湾沖を超えて行きました。思ったほどには大きな災害はなかったようです。過ぎてしまえばもう誰も話題にもしません。

 夏場に南からやってくる台風は、普通に台風と呼びますが、台風の台とは一体何でしょうか。台湾から来る風という意味でしょうか。そうだとすると、台湾という島の呼称は、江戸時代にはすでに日本人には知られていたことになります。

 実際の台風は、台湾よりずっと南の、赤道あたりから発生するようですが、昔の日本人にはそんなことは分かりません。島伝いに来るのは確かですから、たぶん台湾当たりが発生源だと目星をつけたのでしょう。

 私はいつも思うのですが、戦国時代に熱心に天下統一をしていたころに、少し才覚のある侍や、商人が、大きな船を作って、兵を乗せて、北の樺太、南の台湾や、何なら、フィリピンあたりまで占領しておけば、日本は今の数倍広い国土を持てたのではないかと思います。

 フィリピンとなると、既にスペインが占領していて、そこへ割り込むには、スペインと戦わなければなりません。それでも、遥か数千㎞離れたところから、小さな船で兵を連れて来るスペインに対して、日本が運んで来る戦国時代の百戦錬磨の兵とでは実力においても、兵の数においても圧倒的に日本が優勢でしょう。あっさりとフィリピンくらいは手に入れられたでしょう。

 

 但し、南方の島は、なかなか当時は統治しにくい土地だったようです。と言うのも、例えば、台湾島なら、今日台湾人の多く住んでいる西側の平地は、草ぼうぼうの湿地で、マラリヤが頻繁に発生して、開墾者の生命を脅かしていたようです。そのため平地はそのまま放置され、古くから住んでいた原住民は、多くは、東側の山に住んでいたようです。

 台湾は熱帯の国と考えがちですが、実は、山岳地帯の1000mを超える地域だとちょうど軽井沢と同じ気候で、夏でも涼しく、過ごしやすい土地がたくさんあります。多くの部族民はその当たりに住まいを作り、マラリアを避けて、気候の良い地域に暮らしていたわけです。

 ところが、こうした部族は元々が、太平洋上の島から、例えば漂流などによって、台湾に流れ着き、そのまま住み続けたのですが、それぞれ来た島によって、全く言語が違います。そうした人々が、山毎に住んでいて、言葉が伝わらず、そのため山の中でもたびたび戦いが起きました。

 台湾と言う統一国家が出来なかったのも余りに多くの部族が住んでいたためです。こうしたことは、日本が台湾統治を始めた頃でも、山間部の部族は日本の服属することに反対をし、学校を建ててもそこに子供を通わせることを拒否し続けました。

 又、平地のマラリヤにも苦労して、対策のための薬を散布したり、病院を作ったりして、撲滅に当たったのです。恐らく、江戸時代だったらそうした対策は取れなかったでしょう。

 実際スペイン人も、海沿いのごく一部の土地を占拠するのみで、マラリヤ対策も、元住民との接触も避けていたようです。中国人も、対岸から渡って来て、西側の海岸沿いに町を作り、生活をしていたのですが、いずれにしても、日本の統治が始まる以前の台湾は、とても限られた土地で、少ない人口で暮らしていたのです。

 

 一方、北の島々は、間宮林蔵などが、幕府の役人として、北方を視察して、測量をし、島民の様子などを記録しています。鮭や、鰊、昆布などの海産物が豊富で、熊やアザラシの毛皮など、なかなか日本では手にれられないものもたくさんあり、その産物は相当に日本を潤すことになったのです。幕府がその気になれば、千島列島や、樺太島、或いはカムチャッカ半島まで、全土を手に入れることは可能だったはずです。

 但し、当時の役人は、米を物の基本に考える癖がついていて、米の取れない地域、イコール、不毛の地と考えていたようで、北海道ですら、南部を除いては、北海道そのものを、さほど価値ある土地と考えておらず、ほとんど田畑を作っていません。勿体ない話です。世界中の先進国が、北海道よりもはるかに北に住んでいるのに、日本では北の島々を何も生かそうとはしなかったのです。ましてや、樺太となると、その気候の厳しさから、住むに適さない地域と考えていたようです。

 もし、早くから樺太などを開発して、鮭や鰊を取って塩漬けにして本土に運んでいたなら、天保の飢饉など起こらなかったのです。度々の飢饉でも、日本人が飢えることは全くなかったはずです。

 それが達成できなかったのは、国土が狭いからではなく、金がないからでもありません。ほんの少し才覚を働かす能力が不足していたからでしょう。

 

 松旭斎天一は、明治42(1909)年2月から2か月間、台湾全土を興行して回っています。これは半分は日本政府がチケットを買い取り、あと半分は、台湾の興行師が各地に売り込んで興行したもので、そもそもマジックの興行そのものが珍しく、天一のような大きな道具を使うマジックは珍しく、台北、対中、台南、高雄でも、各地で大当たりをします。

 特に、日本政府が興行の度毎にたくさんのチケットを買い取ってくれたのは、山間部に住む部族を呼び出して、天一の舞台を見せ、「日本人はこのように神懸ったことをする力のある国民だ」。と言うことを目の当たりに見せて、臣従させることが目的だったようです。

 実際、天一が剣刺しを演じたり、浮揚を演じると、部族民は騒然とし、剣を刺せば本当に刺さったものと信じ、女性が復活して出てくると、生き返ったものと信じて大騒ぎだったそうです。今の時代であれば、そこまでマジックを信じて見てくれる観客はいないので、この時代のマジシャンの価値と言うものは、全く次元の違うものだったわけです。

 まだ台湾の鉄道が全線開通していない時代の台湾興行ですから、不便も多かったでしょうが。マジシャンとしては充実した日々だったでしょう。

 昨日の台風7号を思いながら、話は天一の台湾興行まで発展しました。私の勝手な夢想の世界ですが、いろいろ考えると幾らでも想像が広がります。

続く