手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

菜の花の沖 2

菜の花の沖 2

 

 小説を読み続けて行くと、司馬遼太郎と言う作家の調査能力に驚かされます。この話は、北前船と呼ばれた当時の千石船の船乗りの出世話であるだけならそう大した話題にもならなかっただろうと思われますが、司馬遼太郎の知的好奇心が、千石船の構造から、当時の商品の流通経路、蝦夷地の当時の生活。アイヌ人の暮らしに至るまで、作者が興味とするものはすべて調べ上げて行きます。

 初めは、嘉兵衛の生まれ故郷の淡路島が、一面の菜の花で満開のなっていた風景から始まります。然し、なぜ淡路島が島中一面菜の花を植えていたのか。と言う素朴な疑問に端を発し、菜の花が菜種を生み、菜種を絞ることで菜種油が出来ることを語ります。当時の日本の国民が夜遅くまで生活するためには、菜種油が必要不可欠なものであったことを知ります。取れた脂は樽に詰めて大坂に運ばれそこから日本中に送られます。

 そしてその名種を取るために肥料として干鰯(ほしか)と呼ばれた魚粉が必要だったこと。その魚粉が、鰊の搾りかすの魚粉であると、菜の花の育ちがよかったこと。鰊の干鰯を手に入れるためには千石船を使って蝦夷地(北海道)まで交易に行かねばならなかったこと。

 当時の蝦夷はわずかな日本人とアイヌ人が入り混じって暮らしていて、彼らは鰊や鮭を取って暮らしていました。この時代は鰊も鮭も幾ら採っても取りつくせないほど採れたのですが、如何せん蝦夷地は人口が少なく、取れた魚を消費する都市がありません。

 そこに目を付けた大坂の商人(あきんど)は、鰊油や干鰯、鮭、昆布、動物の毛皮などをまとめて買い取って大坂に持って行き売りさばきます。それに見合うものとして、大坂から、米、古着、塩などを持って行きます。古着は、東北や蝦夷地では京の流行の柄であれば、奪い合うようにして売れたと言います。

 大量に採れる鰊や鮭は干物にして京、大坂に運びます。それには大量の塩が必要です。塩は蝦夷地でも作っていましたが、大量の塩を作るには、瀬戸内の塩田で、地面一面に海水を撒き、天日で乾かしたものが最も質のいいものが採れました。雨の少ない瀬戸内は塩を作るのに適した地域だったわけです。

 鰊や鮭の干物は、瀬戸内の塩がなければ干物にはならず、菜種油や木綿は蝦夷の鰊の干鰯がなければ育たなかったわけです。そうした流通の一端を引き受けていたのが高田屋嘉兵衛だったわけです。

 

 正月に我々は初詣などに行くと、おめでたい絵として宝船が描かれたものを目にします。そこには米俵やらサンゴ、小判や七福神が乗っていて、帆には宝と大きく書かれています。日本の流通はほとんどが船を利用したもので、日本中の港と言う港は大小の船で溢れていました。千石船が一艘港に着けば、あらゆる商品や食料が町にあふれ、町の景気は一遍によくなったのです。特に江戸、大坂の船の数となるとけた違いで、大きな帆に風を受けて満帆にして入ってくる千石船は間違いなく町を繁栄に導く宝船だったのです。

 

 こうした時代に生まれた柳川一蝶斎は文化文政期と言う、バブル期に入って大活躍をします。表芸は蝶を飛ばす手妻でしたが、他にも怪談手品と言う、イリュージョンショウを演じ、空中浮揚をしたり、骸骨が出て来て踊りを踊ったりと言う大仕掛けなものを見せていました。一蝶斎は年末正月は浅草で興行し、春になると地方巡業に出て、北関東南関東あたりまでは頻繁に出かけたようです。

 天保時代に入って、水野忠邦の改革が始まると、倹約令が出されて、芸能活動が取り締まられ、江戸で興行が出来なくなります。やむなく一座を率いて、名古屋、大坂、まで興行をし、その後、瀬戸内の各地を回って、安芸(広島県)の宮島の芝居小屋で長期興行しました。

 都合3年に及ぶ西国の興行に出て、その名を日本中に知られるようになります。紙の蝶を飛ばすことで日本中を旅して、大当たりをしたと言うのは羨ましい話です。

 一蝶斎の興行がすんなり日本中を回ることが出来たのも、既に日本中の流通が発達していて、簡単に荷物を大坂や四国にまで運ぶことが出来たからです。恐らく一蝶斎の一座の荷物は、3トン程度はあったろうと思われますので、手に持って運ぶことは不可能です。

 基本、荷物は船で、人は徒歩で移動することになります。囃子方、事務方、弟子などを含めて、恐らく20人近い人を移動させるのは今よりはるかに困難だったろうと思われますが、一蝶斎は、事前に組んだスケジュールを淡々とこなして、各地の芝居小屋で興行出来たようです。

 

 同時期に、高田屋嘉兵衛は順風満帆な人生を送っていましたが、ここから人生の最大の危機を迎えます。幕府の仕事を手伝いながらアイヌ人との交易を続けているさ中に、ロシアの軍隊に船ごと捕獲されてしまします。

 これは、数年前、ゴローニンと言うロシアの将校が蝦夷地に入り込み、探索していたところを幕府が取り押さえ、幽閉したことへのロシアの報復でした。嘉兵衛はまったく預かり知らないゴローニン事件に巻き込まれて、船ごと取り押さえられ、カムチャッカにある極東の役所迄連行されてしましまいます。

 それから、ロシアと幕府との交渉が始まるわけですが、幕府にすれば勝手に日本に入り込んで探索していた軍人を捕まえたことは何ら不当な行為ではないため、全くロシアを相手にしません。然し、高田屋嘉兵衛にすれば、ゴローニンとの捕虜交換がなければ日本には帰れないわけですから、必死になってロシアに日本との交渉を依頼します。その間にカムチャッカから、イルクーツクと、居場所が移り、その都度仲間が一人二人と亡くなって行きます。

 嘉兵衛は仲間を励ましつつ、ロシアの軍人との関係を壊さないように、粘り強く交渉をします。やがて、嘉兵衛と言う男が並々ならない知能と人格を備えた男であることを知ったロシア将校が、徐々に帰国に協力してくれることとなり、軍艦に乗って、蝦夷地に向かうことになります。

 この間のロシアの様子がまた詳細に書かれていて、ロシア軍を巻き込んでの幕府との交渉になって、その幕府との取次の役まで嘉兵衛がやらざるを得なくなって行く話は、スリリングで興味が尽きません。

 それにつけても全く言葉の話せない嘉兵衛が、ロシアの将校を感心させて、仲間にしてしまう才能は大したものです。結局は残された数人の仲間と共に日本帰国できて、その後、平穏な余生を送ることになりますが。この数奇な人生をまとめ上げた司馬遼太郎は大した作家です。

 「菜の花の沖」はもうだいぶ前の作品ですが、つい最近本屋に行ったら、まだ販売されていました。単行本で全部で6巻の作品です。お読みになるのでしたら躊躇せずに全巻先に買うことをお勧めします。一、二巻とりあえず買って、後でまた買おうとすると、間がぬけて手に入らずに悔しい思いをしますから。

続く