手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

十円拾った

十円拾った

 

 一週間前のことです。朝、はがきを近所のポストに出しに行ったときに、道に十円玉が落ちていました。一見、ワッシャーでも落ちているのかと思いましたが、よく見ると十円でオレンジ色に輝いていました。

 この時、素直に嬉しくなりました。「十円を拾うなんて何十年ぶりのことだろう」。子供のころには何度か拾ったことがありました。子供のころは十円を拾うとそれは大変な幸運に感じました。無論警察になんて届けません。すぐにお菓子屋さんに走ります。

 お菓子屋さんは当時十円で買えるものがたくさんありました。グリコのおまけつきのキャラメルや、アイスクリーム、チョコレート、さいころの形をしたパッケージに入っているキャラメルは五円だったと思います。キャラメルが二個入っていて五円です。

 大判焼きと言う、今川焼よりも大きなサイズで、あんこの入った焼きまんじゅうが十円でした。昭和40年のころの十円は今の五倍くらいの価値があったのです。ポケットに十円玉一枚を持っていただけで、あれも買える、これも買えると、いろいろな夢が膨らんだのです。

 さて、それぐらい価値のある十円ですが、コイン自体は今と昔は全く変わっていません。私が物心ついたときから十円は今の儘の赤いお金で、裏に鳳凰堂が描かれています。ただ、昔のものはコインの縁にギザがあり、少し手間がかかっています。

 そのギザ付きコインは、今でも両替すると時々見かけることがあります。すなわち十円玉は五倍以上の物価変動があっても、形も大きさも70年近く変わっていないのです。それは一円玉も同じです。五円玉は私が子供のころは穴が開いていなくて、国会議事堂が描かれていました。

 50円玉はもっと大きく、ニッケルで出来ていて、磁石にくっつきました。テンヨーのマジックで50円を磁石にくっつけて取るものがありました。無論、今はそうしたマジックは販売されていません。

 100円玉は昔は銀貨でした。サイズは同じです。今の100円は素材が何だかわかりません。銀でないことは確かです。こうしてみると、50円玉を除けばサイズに変化はなく、昔から使っていたお金も一緒に、そのまま使われています。

 

 我々はそのことを何でもなく考えていて、普通に貨幣を使っていますが、実は70年近く貨幣のサイズが変わらない国と言うのは珍しいのです。例えば、アメリカのコインは、ハーフダラーも1ドル銀貨もどんどん小型化して、小さくなっています。クゥオーターコイン(25セント)も、真ん中に銅が入ってしまって、完全な銀貨ではなくなっています。

 貨幣が変わらないと言うことは、その国が安定していることの証です。日本の近代の歴史の中で、70年戦争がなかった時代と言うのはないのです。日本人が、戦争をせずに、コツコツ真面目に働いていれば、豊かな国になるのは当然です。

 

 最近ではカード決済が進んで、コインも紙幣も使わなくなっていますので、この先、ますますコインの需要はなくなって行くでしょう。但し、カードは銀行のコンピューターがトラブルを犯すとたちまち大混乱です。みんなカードを普通に使っていますが、一国を攻め取るのに、武器も兵士もいらなくなる時代が来るかも知れません。頭のいい男が、銀行のコンピューターをちょっと操作すれば、一国はたちまち破綻します。

 観光客の買い物などちょろいものです。あっという間に五万円十万円の金を奪われてしまいます。そうなったときに電子による決済は危険だと気付くでしょう。日本では、先進国の中では最も電子決済が遅れている国だと言われています。

 それがいいことか悪いことかと言うなら、今の状況がむしろいいことだと思います。やはりお金は自分の懐に収めた上で使わなければ危険です。確かに大金を持ち歩くことはリスクが大きいのですが、日常の買い物などは現金を使うことに何ら問題はありません。

 店によっては「カードお断り」。と貼り紙をした飲食店もあります。浅草あたりの古い店はそうした店が多いようです。何もカードを毛嫌いすることはないように思いますが、あえてそうした貼り紙が出ていると、店として旨そうな匂いを感じます。カードを拒否することが味の予想を高めるのです。変ですね。

 

 松旭斎天勝は、明治18年生まれ、家は元々質屋を営む豊かな家庭だったのですが、父親が事業に失敗し、生活は困窮します。やむなく10歳の時に奉公に出されます。奉公とは下働きのことです。仲居とか、女中仕事をします。

 出された先が、松旭斎天一の女房、梅乃が営む天ぷらの料亭でした。ここの女将がマジシャンの妻とも知らずに、天ぷら屋と言うことで奉公をします。この時、天勝が梅乃と契約をした金額が三年間の奉公で5円でした。5円がどれだけの価値かはわかりませんが、明治の時代の5円は金貨でした。充分に価値あるお金だったのです。一円が今の価格で2万円としても、三年の労働で10万円です。

 未成年ですし、食事や衣類も支給され、なおかつ住まいも用意されてのことですから、安いのは当然ですが、それでも現代の月給にも満たない額で三年働くことになったのです。後に梅乃は、その時の証書が出て来た時に、既に有名になった天勝に気の毒だからと破り捨てたと言います。

 今月6日に、鎌倉で落語会があり、そこで柳家三三さんが、文七元結を演じました。その時博打で借金を作った父親のために吉原に売られた娘の金が、50両と言っていましたが、実は圓朝が初めにこの話を書いたときの契約料は5両だったそうです。1両は後に1円になりますので、天勝の5円と同額です。無論時代は30年くらいずれているでしょうから、吉原に身を落としたこの時代のほうが価値は高かったはずです。

 それでも庶民は、今日の10万円20万円と言う金が作れずに、娘を売ったのです。但し、天勝にとって幸運だったことは、梅乃が、天勝を見て、即座に舞台に向いている。と判断して、すぐに亭主の天一に手紙を出して、一座に加えることを勧めたことです。 思わぬことで天勝は道が開けたことになります。そこから先は天勝の出世話になります。

 

 拾った十円玉から、グリコのおまけつきキャラメルが出て来て、文七元結が出て来て、天勝の奉公が出て来ました。十円一枚でいろいろ想像ができるのは楽しいことです。毎朝、こうして頭の中で想像して物を書くことは私の楽しみです。

続く