手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ぶらくり丁

 一昨日(17日)は朝から鼓の稽古、その後急ぎ本郷へ日本舞踊の稽古に行き、帰るとすぐに習いに来る生徒さんが見えて、夕方まで指導をしました。こうした日々を過ごしてゆくうちに一年はあっという間に経ちます。

 

 昨日(18日)の晩は、田代茂さんとの会食で、素晴らしい座敷に招かれました。食事が凝っていて、久々高級料亭の味を堪能しました。詳細は月曜日に書こうと考えています。

 今日(19日)は玉ひでの座敷で手妻の会です。既に満席です。このところ安定してお客様が集まるようになりました。いい傾向です。もう少し増えたなら、二回公演にしたいと思います。

 大切なことは、毎月演じる場所があること。そしてその催しを長く続けることです。続けて行くうちにはお客様が付き、人が増え、増えて行けばもう少し大きな会場を探して公演するようになります。徐々に開催場所も増えて、人も数多く集まるようになれば

日本各地の市民会館を年間50か所、60か所開催して行くことも夢ではありません。

 何よりも手始めに、玉ひでの座敷を一杯にする。ここからすべてが始まります。多くの方々は、「幾ら座敷を一杯にしても、市民会館を60か所も満杯にするなんて無理だ」。と思うでしょう。

 そうではないのです。仕事と言うのは、先ずどこかにとっかかりが必要なのです。一度根付いて、お客様が集まるようになれば、どんなに小さくてもそれは一つの力になります。そこで人を育てて、自身の技を磨いて行けば、人は興味を持ちます。すると活動は必ず大きくなります。玉ひでは半年続けたことで、ようやく第一歩が完成しました。これをこれから大きくして行きます。乞うご期待。

 

ぶらくり丁

 今から30年近く前、大阪で真田豊実さんのお店が主宰するレクチュアーで指導したときに、真田さんから、「和歌山の金沢天耕さんが会いたがっていますよ」。と言われ、「さて金沢天耕さん・・・」としばらく記憶をたどりました。

 金沢天耕さんは、戦前から知られたアマチュアマジシャンで、何度かマジックの大会などでお会いしていました。私の知る天耕さんはかなりな高齢で、既に80歳近くの人だったと思います。痩せて小さな人でしたが、マジックの好きな人に共通する、きらきらと輝いた眼を持っていたのが印象的でした。

 

 氏は昭和初年からのマジックマニアで、長く和歌山に住んでいらっしゃいました。家は大きな呉服屋さんで、その昔は何一つ不自由のない暮らしをしていたようです。その昔はこうした、旦那でマジックの好きな人がたくさんいたのです。

 若い頃に天海師に会って一遍にとりこになってしまいます。当時天勝一座の中に、石田天海師が客演で加わって日本中の芝居小屋で興行をしていたのです。和歌山市の興行にもたびたび来ていました。

 昭和10年に和歌山マジッククラブが出来て、初めての発表会をすると言う時に、偶然天海師が和歌山に来ていることを知り、指導を依頼すると快く引き受けてくれたそうです。それから毎日四つ玉の特訓をして一週間。何とか手順をこなすようになりました。

 その間、金沢さんの家が持っている和歌の浦の別荘に天海師を泊めて、食事からすべてを手配したそうです。昔はこうした旦那が各都市に一人や二人いたのです。

 

 この時なぜ天海師が和歌山に長逗留を続けていたのかと言うと、和歌山には宮大工の谷口勝次郎さんがいて、この人は昔、松旭斎天一が和歌山で興行した折、道具が破損して困っていたところ、すぐに駆け付けて道具を直したことから一座との縁ができ、度々天一から新規の道具の依頼を受けるようになります。明治末年のことです。

 谷口さんは固い性格の人だったようで、天一から頼まれた道具は決して複製せず、人に売るようなことはしなかったそうです。その固さを買われて、天一の弟子の天勝も、大道具はみな谷口さんに依頼していました。

 そして、天海師ですが、天海師は当時アメリカに暮らしていて、5年に一度日本に帰国をして、そのたびに半年から一年、天勝一座に加わって、興行して回っていたのです。天勝一座にとっての悩みの種は、目新しい道具を手に入れることでした。毎年同じ劇場を回って興行しているのですから、新作がないと苦しかったのです。

 昭和5年アメリカにいた天海師と連絡が取れるようになると、現金を送金して、アメリカの大道具を買ってもらうようになります。然し、当時は輸送が困難でしたので、図面を買い取り、国内で大道具を制作することになります。その制作者が谷口勝次郎さんだったわけです。

 天海氏は、日本に帰国すると先ず和歌山に行き、天勝のための道具作りで谷口氏と打ち合わせをし、その後東京に戻り、一座と一緒に日本中を回りつつ、道具が出来上がると、今度は振り付けなどの指導をして、一座に協力をしていました。

 金沢さんはこの時に天海師と遭遇したわけです。以来天海師からスライハンドを習うことになります。そして、天海師から名前を貰い、天耕を名乗ります。金沢天耕です。

 金沢さんがこのままアマチュアでいたなら、地方都市のマジック好きな旦那で終わるのですが、金沢さんは戦後になってプロになります。実際、二代目天勝一座と南米公演をしたりするのですが、技は確かに天海譲りなのですが、やはりアマチュアの演技で、しかも育ちの良い坊ちゃんですから、舞台に欲がなく、派手さに欠けたマジシャンで終わります。

 金沢さんは、四つ玉の演技を発展させて、八つ玉の手順を発表したり、天海のシガレットの手順を発表したり、著作活動をするようになります。八つ玉の本は後に島田晴夫師に影響を与えています。然し、そのことももう埋もれたエピソードになってしまっています。

 その金沢さんから、30数年前に、お会いした折、「若い人で有能な人の写真とプロフィールを送って下さい」。と言われ、十人分くらいの写真とプロフィールを送った記憶がありました。別段気にも留めていなかったのですが、真田さんから、「金沢さんが会いたがっている」。と言われ、大阪の指導の翌日、和歌山に出かけて見ると、立派な装丁の写真集が出来ていて、私に下さいました。その上、ご自身の半生を書いた、奇術偏狂記と言う自伝と、天勝の直筆の色紙、そのほかいろいろな資料を頂きました。金沢さんはそれからほどなくして亡くなりました。

 なぜ私にそこまでのことをしてくれたのかはわかりません。私の人生にはこうした、親切な老人から突然貴重な資料を頂くことがたびたびありました。なぜなのか、ずっと自問自答したまま今日に至っています。そして、今、私は少しずつ故人のマジック愛好家の資料を読み直して、彼らがどんなマジックの世界を作り上げたかったのかを夢想しつつ、こうしてブログに書いています。これは鎮魂なのでしょうか。

 金沢さんから頂いた名刺の住所にはぶらくり丁と書いてありました。和歌山の繁華街の一つなのでしょう。あまり珍しい町名なので忘れられません。地味で静かな老人でしたが、最晩年に至るまで日本の若手マジシャンに期待して、写真集を作ってくれたその純粋な心に敬意を表します。本棚にあった写真集を何気に眺めながら、様々なことを思い出して記しました。