手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

何を語ればいいのか

何を語ればいいのか

 

 私が良く言う話で、「3分5分の演技なら、単なる現象の羅列でも、不思議につられてお客様は付いてくる。10分15分の演技となると、しっかりとした手順を作ってエンターティメントとして演じないとお客様の興味は離れて行ってしまう。これが30分1時間のリサイタル公演だと、全体に自分の考えが行き渡って、演劇的に構成して、まとまった考えを伝えないと、空虚なものになって、お客様に満足を与えることが難しくなる。

 全体を通して、演者の世界が作られていないと長い演技は難しい。マジックであること、不思議であることは大切なのだが、何を伝えたいのか、何が語りたいのか、そこがはっきりしていないと公演全体が鎮撫なものになってしまう」。

 と、こんなことを言うと、「そうか、全体を通してテーマを持ってショウを作らないといけないのか」。と理解して、突然、哲学を語りだしたり、世相を語りだしたり、人間愛を語りだす人がいます。

 あれあれ、今までそんなことを考えたこともなかった人が、突然大きなテーマを無理無理作り出して、大真面目に舞台で語りだします。やっていることはカード当てであったり、テーブルを浮かせているのに、とってつけたような人間愛を語りだされても困ります。お客様もマジシャンから人類愛や世界平和など求めていないのです。

 取ってつけたような考えは考えにはなりません。自分自身が体験して気づいたことや、何かに共鳴して自分自身が感動したことを自分なりにまとめて答えを出さなければ意味がないのです。

 しかも我々のしていることはマジックなのです。むき出しのままの考えを語りだしてもお客様は困惑します。マジックを通して薄くほの見えてくる考えに価値があるのです。

 

 実際に1時間の単独公演をして見ればわかります。10年もマジックをしていれば、出来るマジックはたくさんあるでしょう。それを順に演じていけば1時間は難なくできそうに思えます。ところが、5分、10分と演じて行くと、山ほどあると思っていたレパートリーがどれも工夫もなく、只既製品を並べて演じていたことが分かって来ます。

 自分流に話の展開をして語っているつもりでも、実際やって見れば、どれも同じパターンの展開ばかりで、平凡な内容であることに気付きます。

 単発に並べた演技は、盛り上がりもなく、ギャグも人のやることの真似で、独自の笑いもなく、工夫もなく、どれひとつとっても未熟なものであることに気付くはずです。そして最後まで演じ切った後に、さて、自分は一体何を語りたかったのだろう。と自問自答して、結局自分自身の考えの浅さに気が付くのです。

 つまり、自分の演技には自分が存在していないのです。何かを語ろうとしても、そもそもその何かがないのです。あるのは既製品ばかり、元となるものもなくて自分が舞台に立っていることに気付いて愕然とします。

 これはプロを目指そうとした人が必ず辿る道です。実はここからプロのマジシャンの修業が始まるのです。そこから、自分は何をすべきかを真剣に考えてマジックを追求して行き、何年か後に良いマジシャンになるのです。

 

 ところが、人によっては、考えがまとまらないことで、周囲の否定、マジックの否定、私の否定を始めます。できないことを他人のせいにするのです。

 「結局マジック何て深い考えなんかいらないんだ。自分が子供のころ、マジックの種を一つ一つ買って行って、マジックを覚えて行くのは何より楽しみだった、あの楽しみを観客に伝えればいいんだ。マジックは不思議であればいいんだ。お客さんは不思議を見に来ているんだ。それ以外の何物でもない。

 藤山の言っていることなんて、理屈ばかりで何の役にも立たない。あいつは話を小難しくしているだけだ。マジックは理屈じゃぁない。面白ければいい、楽しければいい、お客さんはそうしたマジックを求めているんだ」。

 仰る通りでございます。面白ければいいのです。ただ、覚えておいていただきたいことは、およそ、プロの演じるマジックで面白くない舞台と言うものはないのです。プロで生きて行くならば、それ自体が見て面白いものでなければ買い手は付かないのです。つまり、プロの演技で面白くなければいけないと言うのはプロとしての入り口の条件に過ぎません。

 「僕は面白いマジックがしたい。お客さんに楽しんでもらいたい」。そう言うマジシャンは多いのですが、それはあえて言うことではなくて、当然のことなのです。そこから、どう面白いのか、どう楽しいのかを追求して行くことがプロの道なのです。

 マジックを買い集めて、一つ一つマジックを知って行くのは楽しいことの連続だったでしょう。でも、マジックを買わずに、マジックの仕掛けも知らない人に、そのマジックの楽しみをどうしたら伝えられるのですか。

 マジックを買うこと、覚えることと、演技を見せてお客様を感動させることは同じことではないはずです。マジックを覚えて、マジックが出来るようになったマジシャンは、今度はお客様に何を与えるのですか。ここが良くわからないまま自分の優越だけでマジックを演じていたのではお客様は集まって来ないでしょう。

 そうなら具体的に、60分の演技で何をどう見せなければいけないか。そのことを私は話しているのに、そこを真剣に受け止めようとせずに、種仕掛けを知ったアマチュアの時の儘の気持ちで、自分の楽しさだけを求めてマジックをしているのでは、プロの演技にはならないのです。

 何を語るか、どう語るかは、その人の人生や、マジックを学んだ中でつかみ取って行くものです、個人個人それぞれ学び方も、学んだことも違いますし、どう語るのかも違います。千差万別であるが故に芸能は面白いのです。

 然し、作品を生み出すことの苦労は誰もが共通しています。簡単ではないし、答えの書かれたテキストなどないのです。それだけに芸能はやりがいがありますし、同時に苦労して達成したときには楽しいのです。マジックが楽しいと言う人は、本当にこのことが分かって楽しいと思っているのでしょうか。

続く