手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

カードマニュピレーション 3

カードマニュピレーション 3

 

 さて天二のその後と、日本のスライハンドの歴史をかいつまんでお話ししておきましょう。天二は明治43年スライハンドを発表して一躍日本にスライハンドブームを巻き起こします。養父天一は天二の実力を認めて一座を天二にゆだねます。

 明治44年、天二は天一一座を継承し順風な船出をするかに見えましたが、天二に対して座員が反発をし、一座は分裂をします。それは、天二がスライハンドの秘密を固く守って、養父の弟子たちに教えなかったためです。

 天二にすれば苦しい思いをしてアメリカ人から習った技の数々を、簡単に弟子に公開することは出来なかったでしょう。然し、彼はスライハンドマジシャンであると同時に、座員40名を抱える座長だったわけです。当時、情報の少なかった時代に、師匠から芸を習う以外に、技の習得はあり得なかったわけですから、本来なら希望者に基礎指導くらいはすべきだったでしょう。

 然し、天二のスライハンドに対する排他的な態度は徹底していました。楽屋でもセットをするときには、大きな布を楽屋の四隅に張って、人に見られないように布囲いの中でセットをしました。天二の演技を舞台袖で座員が見ていると厳しく叱責しました。

 こうした行為が弟子の反発を生み、座員は天二につかず、大半は天勝に付きました。天勝は美貌で人気を集め、ダンスや舞踊が達者で舞台姿勢も素晴らしかったのですが、長いこと天一の脇でアシスタントをしていたために、芯に立ってマジックをする機会が少なかったのです。

 そのため、一座を持っても持ち芸が少なく、自然に座員に頼って番組を作る以外に手がなく、そのため天勝は座員を大切にします。その結果座員は天勝に付き、天二は技の実力を認められながらも、一座を縮小して興行せざるを得ませんでした。

 私はこうした天二の活動を見ると、彼は大一座の座長と言うよりも、職人気質のスライハンドマジシャンだったと思います。せっかく天一一座と言う日本一の大一座を継承しながら、その後の活動は不運続きでした。

 大正2年に欧州に渡って興行するうちに、折から第一次世界大戦が勃発し、ロシアの興行中に、ドイツ側のスパイと疑いをかけられ、1年もの間座員全員牢に繋がれる不幸がありました。この一件で、天一は帰国後、持っていた財産の大半を座員の保障に充てることになります。

  帰国後、天一を襲名して、二代目披露をしますが、天一引退後5年以上経っての襲名は精彩がなく、世間の話題になりませんでした。そして失意のうちに大正10年になくなります。天二の不幸はそのまま日本のスライハンドを停滞させました。

 一方、天勝一座に移った天洋、天海は、見よう見まねで覚えた天二のスライハンドを演じ、それなりに人気を博します。然し、技も、演技も、アメリカで鍛えられた天二とは比べようもなく、いつしか観客のスライハンドの熱気は消えて行きます。

 

 大正13(1924)年に天勝は一座を率いてアメリカ公演をします。この時、天海も同行し、スライハンドを演じます。然し、実際アメリカの一流スライハンドマジシャンを見ると、その差は歴然で、とても太刀打ちできません。そこでアメリカに残って修行をすることにします。

 天海はアメリカでスライハンドを学びつつ、ボードビルに出演します。その努力は認められ、アメリカの奇術界でも高い評価を受けるようになります。そのうち、天勝から帰国を促す手紙が来ます。天海はそれに応え、昭和5(1931)年、昭和10(1936)年、昭和15(1941)年の三回日本に帰国をし、その都度天勝一座と共に日本中を一年間興行して回りました。

 天海の舞台は、当時のアマチュア松田昇太郎さん、布目貫一さんなどが見ていて、昭和5年、10年の舞台などを今見てきたように私に話してくれました。

 天海のカードは、お終いに一枚出しをフルスピードで演じ、たくさん出ているうちに幕が閉まって行ったそうです。そうすることで、「幕が閉まっても、まだまだカードが出続けているんだろうなぁ」。と観客が推測をし、余韻が残る演出だったのです。

 天海の得意芸は、カード、四つ玉、シガレット、ミリオンウォッチで、どれもコミカルに演じつつ、その種仕掛けの手がかりは全く感じられないものでした。実際、今も天海の一連の映像は残っていますが、ミスディレクション(誤誘導と昔は訳したようです)と言い、スチール(種取り)と言い、全く不自然さがありません。

 戦前は天海の来日によって一大スライハンドブームが起きます。天海は日本中を回るうちに、随分とアマチュアにもプロにも基礎指導をしたため、多くのスライハンドマジシャンが生まれました。ある時代、天海は日本のマジック界の普及に貢献したのです。

 天海が帰国をしたのは昭和33(1958)年長いアメリカの生活を終えて日本に戻ります。昭和35年からテレビで天海の番組が作られて、毎週天海とそのほかの日本のマジシャンによるマジック番組が放送されました。

 私の記憶では断片的にその番組を見た覚えがありますが、私は小学校に入ったばかりでしたので、全く子供の興味で見ただけでした。内容は、クロースアップから、トーク、小道具を使ったマジックなど様々で、今見ると、圧縮ブロックなど、売り物の道具まで演じていて、「天海さんがこんなマジックまでしていたのか」、とびっくりします。

 さて日本に帰国をしてから天海は、若いころの引田天功島田晴夫などと出会います。特に、島田晴夫が八っ玉を演じたことに興味を持ち、島田にマジック指導をすると申し出ます。島田とすれば願ってもないことですが、どうも、島田にとっては天海の芸は相性が悪かったようです。

 後日、私が島田師に伺った時に、「なぜ天海先生の指導に興味を示さなかったのですか」、と尋ねると、「天海先生の演技は、改めがくどいんだよ。手の裏と表を何度も改めるんだけど、お客さんからすれば、そんなに改めなくたって、一度裏と表を見せたらもうそれでいいはずだよね。仮に何もないとしても、過剰な改めをすれば、そこに何かあると、逆に勘ぐってしまうよね。そこが僕からすれば不自然だと思ったんだ」。

 これはとても意味深な発言で、この先昭和36年ごろから、鳩出しのブームが来た時に、古典的なスライハンドの演技はどんどん消えて行くことになります。実際、島田師も天海師の指導から離れ、鳩出しに移って行きます。

 時代の変わり目を象徴した言葉と言えます。天海師の帰国が10年早かったら、師の技は上手く日本の若手プロマジシャンに継承されたと思いますが、この10年のタイムラグは日本の奇術界の損失だったと思います。

続く