手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

宝塚も学校のいじめも

宝塚も学校のいじめも

 

 ジャニーズの話題がひとしきり下火になったかと思っていたら、今度は宝塚で自殺者が出て、そこから宝塚の根深い闇がさらされています。宝塚は学校であり、学校がそのまま舞台活動の場につながり、更には、テレビや、映画に出演するようになってスターの道につながって行きます。

 まるで小中高大の一貫校のようで、芸能で生きる者にとっては、才能と努力によって、どんどん出世して行ける社会ですから、願ってもない組織なわけですが、実際には、一企業が、学校から、舞台から、芸能プロダクションまで一手に経営しているわけですので、全ての力を会社に握られていて、その中で生きて行くのは決して簡単なことではないだろうと察せられます。

 誰を使うか、誰を抜擢するかの決定権は会社のトップの人にゆだねているわけです。同時に収入も、外部への出演交渉なども会社が権限を持っているわけですから、ある意味社会主義国の組織に似て、中にいる人たちは、何から何まで管理され、会社に逆らうことなどできないでしょう。

 こうした社会では、往々にして上下関係を利用して、いじめが横行します。生徒同士の派閥が出来て小さなボスが生まれ、ボスは上層部の幹部と結びついて、既得権を手に入れて、それを武器に力による後輩への圧迫が始まります。これが虐めです。

 これは中学校などで頻繁に起こる虐めとよく似ています。虐めをする集団は、担任や教師の前では模範的な生徒だったり、地方ではそこそこいい家の子供だったりして、周囲は実力者の親に気兼ねして注意もしません。その立場を利用して、自分の言うことを聞かない者達を制裁したりします。

 虐めに耐えかねて、担任に実態を話すと、担任は両者を呼んで、和解を促します。ミニボスはその場では素直に和解に応じます。然しその後で、今までの数倍もの虐めを繰り返すのです。再度担任に訴えると、担任は「私にばかり解決を求めるのでなく、少しは自分で解決しろ」。と言い出します。つまり面倒臭くなるのです。

 教師は全く虐めの根源を探ろうとはしません。一度弱者の立場に置かれた生徒は、弱者である限り虐め抜かれます。それに対して教師は逃げてしまいます。

 

 学校の虐めは、生徒間の問題ではありません。社会の縮図です。同じことは、会社の中で、下請け会社や、出入りの業者に対しても、テレビ局とタレントの関係でも日常行われています。子供は常に親の仕草を見ています。家に来る客を見て、親が言葉を変え。表情を変えて人に接するのを見ています。そこから自分が強い立場に立てる方法を学び、すぐに学校で弱者を見つけて親の真似をします。

 日本の社会では、少々嫌味を言われたり、差別されたりしても大概は弱者が我慢をして終わります。無理を言われたりすると、お中元やお歳暮などを送って、人間関係にクッションを作ります。大概は小さな圧力はこれで収まります。

 ところが、学校のような、隔離された社会で、しかも未成年であると、虐めのほどが分からずに、命の危険にまで及ぶ事件に発展します。生徒が死亡する事態になって、初めて地域社会が虐めの実態を知るのです。

 そして死亡事故が起こったときに、教師や、教育委員会の取る態度は決まって、「虐めがあったとは知らなかった」。「色々調べたが、虐めの実態はなかった」。などと結論付けてしまいます。

 旭川の中学校も、宝塚も同じことです。狭い地域で起こった事件を、誰も加害者を出さずに、もめ事を起こさずに平和に解決する方法は、「何もなかった」。ことで終わらせることなのです。

 然し、事件を調べて行くうちに、加害者の罪が出て来ます。それを表に出せば、狭い地域で、何人もの犯罪者を出すことになります。そんな仕事を、それでなくとも多忙な教育者が、仕事の傍らやらなければならないと言うことが、教師や、教育委員会の役員にとっては負担なのです。

 言ってしまえば面倒くさいのです。ゆえに、教育者にとって、一番いいい答えは、自殺者に全て責任をひっかぶってもらって、何も知らなかったことにするのです。そうすれば学校には問題がないことになり、問題がないなら余計な仕事をしなくてすむ。と言う結論になるのです。

 然し、何もないのに自殺者が出るはずはありません。狭い地域でうやむやに解決しようとしても、マスコミなどが大騒ぎをしたり、裁判になったりすると、そこから、隠蔽が見えたり、いじめの苦情を無視していたことが明るみに出たりします。すると地域社会の見る目が変わり、教師や教育委員会への批判が始まります。

 そこで、日ごろの杜撰な管理体制が次々に明るみに出るのです。問題が自分の立場に及ぶことで初めて事の重大さを知り、慌てて教師も教育委員会も被害者と向き合うことになります。然し、これが虐めの解決にはつながりません。教師も教育委員会も自分の立場が危うくなったから慌てているのです。死者の心中も、虐めの根本とも真剣に向かい合ってはいません。保身のため、世間の批判をかわすために神妙なポーズを取っているだけなのです。

 虐めを完全になくすには学校の中に厳しい管理のルールを作らなければ無理なのです。特別な方法ではありません。虐めをした者に、「今ここで二度と虐めをしないと誓いなさい。それでも虐めをするなら、今度は親を呼ぶ。その上で全校生徒の前で今までの虐めを公表する。さらに虐めが繰り返されるなら、高校の内申書は書かない。そうなると高校にも行けない。それでいいか」。と強く念を押し、誓約書を書かせるのです。

 はっきり教育者が問題を明確にして、先の対処まで示さない限り虐めは続きます。虐めは社会の曖昧な部分に巣食っているのです。問題解決は生徒同士では無理です。親や、教育者の曖昧さが解決を阻んでいるのです。

 アメリカでは保安官や警察官が常駐している学校もあります。アメリカで虐めが発生すればすぐに傷害事件に発展します。それに対処するには銃で解決するしかないのです。子供同士のいざこざを、握手して仲良くなれと言うのは、全く問題解決に向き合っていないのです。

 そもそも、虐めは子供同士のいざこざではなく、多分に社会の問題が絡んでいます。強者が弱者を恫喝しているのなら、これは握手をする話ではなく犯罪なのです。その問題の根は、一方的に危害を加えた者の罪なのです。

  世の中にはいくら言ってもわからない人がいますし、絶対に間違ったことをする人と手を取り合って生きて行くことなど出来ないのです。ましてや、死者まで出した問題で、「みんな仲良く」。だとか、「互いに話し合えばわかる」。だの、「そもそも問題すらなかった」。などと言う人達は、犯罪に加担している人達なのです。

 こうした事件の解決はどうしたらいいのか。徹底的に裁判で戦うことです。加害者は勿論のこと、事件を隠蔽しようとした会社、教育者にも、全てに事の重大さを知らしむることです。人は決して善意だけで見ることは出来ません。なにげな悪口や、虐めも、事細かに対処していかない限り、いつしか大きな災難になって降りかかって来るのです。

続く