手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

人に迷惑をかけてはいけない 1

人に迷惑をかけてはいけない 1

 

 日本中の親が子供に教育するときに、一番耳にする言葉が、「人に迷惑をかけてはいけない」。と、言うものでしょう。ではなぜ人に迷惑をかけてはいけないか。と問えば、「自分がされたらいやなことは人にもしない」。と言う教え方をします。これはその通りです。

 日本で日常に暮らすための生き方としてはこれでいいのでしょう。然し、この教育方法には曖昧さが残ります。

 先ず、自分自身が人に迷惑をかけないように生きようとすることは正しい行いです。然し、わがままな友達がいて、自分に危害を加えてきたらどうしますか。自分の持ち物を壊したり、自分の欠点をあからさまに悪く言っていじめて来たり、或いは、相手はまったく悪意はなくても、自分にとって言われたくないことを執拗に言ってくるような人がいたらどうしますか。

 こんなことは日常幾らでもあります。然し、日本の親はそれに対処する方法は教えません。子供は小学校に上がって、まず直面することは、世の中は善意の人だけではないことを知ります。初めから差別しようとして寄ってくる人。悪意むき出しで向かってくる人。初めから自分をいじめる目的で仲間を作て嫌がらせをする人がいるのです。

 いじめの対象は、体が小さい。家が貧しい、勉強ができない。性格がおとなしい。自己表現力が低い。いろいろな理由で同級生は弱者を攻めて来ます。

 小学校入学時には、さほど人と違ってはいないと思っていても、同学年と暮らすうちに、小さな差から少しずつ目に見えない階級が作られて行きます。いつの間にか優位に立つ人、底辺に押しやられる人の差が出てきます。

 担任の先生に相談すると、先生は、「仲間同士で話し合え」。と言って対処してくれません。殴られたり、叩かれたりすると、さすがに担任も、いじめをする生徒を職員室に呼び、通り一遍の注意をします。

 これで問題解決かと思いきや、むしろ、先生に言いつけたことがいじめを一層ヒートアップさせて、極端ないじめに発展して行きます。

 人に迷惑をかけてはいけないと言う教えは、互いが相手を尊重する社会においては有効でが、わざと弱い者をいじめて楽しんでいるような人には何ら役に立ちません。

 小学校、中学校などと言う、小さな社会で暮らすにも、人に迷惑をかけないと言うだけでは全く無力であることは、子供でも気付くのです。

 そこで前向きな子供は、運動能力を伸ばそうとしたり、勉強を熱心にして人に認めてもらおうと努力をします。そうした子供はめでたく虐げられた社会から抜け出すことが出来るでしょう。然しそれが本当に問題解決でしょうか。

 弱者の立場から抜け出した子供は、自分の自由は手に入ります。然し、今度はその実績を盾に、強者の立場に立って弱者を差別する立場に立ちませんか。

 

 幕末期から明治にかけて、西洋の思想が入ってきます。自由、平等などと言う考え方も伝わります。いや、あえて習わなくても自由や平等の考え方は日本にも古くからありました。ただ身分制度によって完全な自由も平等も妨げられていただけなのです。自由も平等も狭い仲間内の価値観に過ぎなかったのです。

 そのことは西洋も同じです。ヨーロッパも、王がいて、貴族がいて、資本家がいて、力ある人が労働者を搾取して自由を奪っていたのです。然し、キリスト教によって思想は根付いています。神の元において人は平等であり、自由であると言う考え方です。

 今、たまたま、様々な理由によって自由も平等も手に入れられないとしても、神は自由と平等を初めから認めていると言うものです。ヨーロッパの人はこうした考えによって心の救いを得ていたのです。

 ヨーロッパの思想を日本に取り入れようとしたときに、まず立ち止まってしまったことは、神と言う存在です。日本では、様々な神、仏がいて、考えを一つににまとめることが出来ません。自分の家の近所の、住吉神社であるとか、明神様、権現様など、そうした神様が自由や平等を保障してくれたことはなかったのです。勿論隣人愛や、正しく生きる道は語られていたでしょう。然し、自由と平等の保証はありませんでした。

 

 福沢諭吉は、学問ノススメを書くときに、神と言う言葉を使うことをためらいました。日本では神、仏がたくさんいて、まとめきれなかったからです。そこで、「天」と言う言葉を使うことを思いつきました。天とは太陽です。太陽は世界にただ一つ。誰の頭にも平等に日が差します。

 その太陽のもと、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言えり」。と語り始めました。分かりやすい言葉です。

 日本人は初めてここで、自由も平等も、権力者の都合で与えてくれたりするものではなく、始めから人として生まれて来た時に既に身に備わっているものだと知ります。

 今、学問ノススメを読んでも恐らく多くの人はさほどの感動もしないかもしれません。然し、明治時代の人には衝撃的な本だったのです。思想が書かれた本であるにも関わらず、明治のベストセラーになります。学生だけが読んだのではありません。呉服屋の手代でも、蕎麦屋の出前持ちでも懐に忍ばせて、必死になって読んだのです。そして希望を膨らませて日本は文明開化を迎えたのです。

 文明開化以前に日本に文化も文明もなかったか、と、言うとそうではありません。爛熟した文化も思想も備わっていたのですが、自由も平等も、思想と捉えるには、少し緩かったのだと思います。それがなぜかと言えば、ヨーロッパのように、神の元に平等、という絶対の考えが備わっていなかったのです。神はキリスト教では絶対であり、その神がすべての人々は平等と言えば絶対なのです。

 ところが日本での平等は少し違います。互いの仲間を認め合うことで、「自分がされて嫌なことは人にしない」。と言う考えから互いの自由を認め合います。これは人が初めから持っている権利ではなく、人と人との約束事で成り立っている考えなのです。

 この考え方は、戦国時代の楽市楽座に似ています。為政者が、わが城下町では自由な商売を許す。と、許可すれば、その日からその場では自由が手に入ります。

 然し、力ある人のさじ加減でいつでも自由は奪われます。飽くまで人と人の取り決めであって絶対の自由などないのです。

 日本が欧米と比べて、学校でのいじめが多いのは、多分に、教育をするときに、初めに、神の元に人は自由で平等であると教えないからではないかと思います。

 自由も平等も絶対であることを指導していないのです。それゆえに、子供は自由を勝手に解釈し、教師は自由を侵されている子供に対しても曖昧な対応しかしないのです。

 最近Daigoさんが、生活保護者なんかに税金を使うのは無駄だ。ホームレスなんかいないほうがいい。犯罪者と同じ、死刑にしてもいい。と、強者の立場でものを言ったことで世間から非難を浴びています。

 生きることの自由も平等も、いとも簡単に個人の裁量で好き勝手な解釈をされてしまいます。なぜこんな考え方が出て来るのか、このことは明日また詳しくお話ししましょう。

続く