手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

人に迷惑をかけてはいけない 2

人に迷惑をかけてはいけない 2

 

 福沢諭吉が神を天と言う言葉に置き換えて説明したまでは良かったのですが、どうも天は漠然としています。そのためいつの間にか、日本では、自由も平等も、絶対のものであると言う基本が抜け落ちてしまいます。

 しかも、自由も平等も、福沢諭吉の本を読んだ人が自動的に手に入れられるわけではないのです。

 欧米でも、キリスト教の教えにあると言っても、何もせずにそのまま自由平等が手に入ったわけではありません。

実態は、1789年。フランス革命がおこります。フランスの国是は自由、平等、博愛です。自由平等を手にれるために多くのパリ市民が犠牲になります。

 鉄砲をもって市民を攻撃するフランス政府軍に対して、市民は、道の敷石を剥がして、それを投げて応戦します。誰が見ても市民は非力です。道端にたちまち死人の山が出来ます。然し市民は次々にやってきてフランス兵と戦います。どれほど市民が死んでも、次々に市民の応援が増えて行きます。それだけ自由平等は価値あるものなのです。

 結果、王家は没落して、民衆は議会を手に入れます。フランス革命の効果は大きく、19世紀以降、欧州では各国で革命運動がおこります。

 昨日、自由と平等は人として生まれたなら始めから持っているものだと書きました。然し、実際はそれを現実のものとして手に入れるために、欧州では多くの犠牲を払って戦って勝ち取っているのです。

 ルイ王朝が倒れた後、今度は資本家と労働者との間で自由平等の戦いが始まります。

 

 かつては、職人や大工、鳶の世界で、「怪我と弁当は手前(てめぇ)持ち」。と言われていましたが、実際19世紀から20世紀まで、大工職人だけでなく、多くの労働者は何の保証もなく手間賃だけで働いていたのです。

 工場で機械に体が挟まって、腕や足を無くしたとしても、工場長がわずかな見舞金を持ってきて、それで終わり。翌日からは仕事はなくなり、一家は悲惨な生活を送ることになります。

 資本主義の初期は文字の通り、資本が全てで、誰も補償をしてくれなかったのです。経営者も、労働者も、持っている財産が全てで、怪我をすれば自らの蓄えで治療するほかはなかったのです。

 それでも財産があれば何とか生きては行けますが、元々が手間賃のような給料で働いていたのでは、財産などありません。そのため、怪我や病気をすればたちまち生活が困窮したのです。

 今の感覚で考えると、なぜ資本家は庶民を助けないのか、と思いますが、資本が全ての時代では、金を使うことは罪悪です。金持ちは金を使わないから金持ちなのです。

 そのことは日本も同じで、金のある人は、金をため込むばかりで一切使いません。使う必要がないのです。資本があれば黙っていても金は入ってきます。

 農村では庄屋様と言う金持ちがいて、広大な田畑を持ち、田畑は小作人に貸して耕作させ、その収入が入ってきます。

 米も大豆も麦も作って、都市に卸し、余剰の穀物で味噌、醤油、酒、を作って村で販売します。村人は、味噌も醤油も酒も庄屋様から買い、すべて付けで支払います。値段は庄屋様のさじ加減でいくらでも価格を上げることが出来ます。生活が出来なければ庄屋様から金を借り、利息と元金を労働で支払います。いつしか借金が大きくなれば、本百姓は田畑を庄屋様に売り渡し、小作人に落ち、自前の田畑を庄屋様から借りて耕すことになります。農村経済は庄屋様が牛耳っていたのです。

 初期の資本主義では、大きな資本を持った資本家が圧倒的に有利で、十年と経たないうちに、本百姓は田畑を失い、ほとんど庄屋様の小作人になって行きます。

 

 このころの経営者にすれば、「なぜ自分は国に税金を支払わなければならないのか。すべて俺の才覚で稼いだ金ではないか。それを国は、困窮者救済の費用に充てたり、病人の治療費に充てている。全く無駄ではないか。貧しいものは頭が悪いから貧しいのだ。努力をしないから貧しいのだ」。

 と、言ったかどうかは知りません。多分そう言っていたのでしょう。自分の持つ資本がすべてと言う時代は、労働者は、災害があればたちまち生活が困窮しますし、資本家はいつ不況が来るとも知れませんから、決して金を使おうとしないのです。

 

 Daigoさんが言っていた、「なぜホームレスに自分の税金を使わなければいけないのか」。という不満は、実は資本主義の初期の時代の経営者の言葉なのです。福祉や医療保険が国の安定を作り出していることに気が付いていないのです。

 Daigoさんの言葉の裏には、「自分はこれまで努力をしてきた。だからみんなも努力をしろ、頭を使え」。と自分の成功を盾に物を言っているのでしょう。

 Daigoさんは、子供の頃はいじめられっ子だったと告白しています。彼はその境遇から脱出するために人一倍勉強をしたのでしょう。そして、執筆活動やネットで収入を上げて大成功しました。

 ところが、いつの日か、Daigoさんは、いじめられている立場から強者の立場に変わって、弱者を攻撃するようになりました。彼が心の中で本当は何を考えていたのか、この一週間で本心を吐露したのです。

 その思いは、よほど根深いものだったらしく、始めは決して考えを改めませんでした。然し数日後、突然謝罪をしました。Daigoさんも、周囲に言われまずいと思ったのでしょう。とにかくこの場は謝罪をしておこうと判断したのでしょう。

 然し、そこから彼は大きなミスを連発します。謝罪があまりにおざなりだと言う反発が集まったのです。その翌日、謝罪の撤回の撤回と言う意味不明な画像を出します。

 この画像を出すまでに、予想以上に周囲からの批判が来たのでしょう。ここに至って、彼は自分の言った言葉の重さに気が付きます。然し、彼の心の中は決して自分の考えを改める姿勢を見せません。

 二度の謝罪に至っても、言葉の端々に、強者の立場が見えます。施設に寄付金を出す。などと、金で解決をする姿勢を見せます。寄付なら寄付で黙ってするなら美しい行為なのですが、散々生活保護者に対して、死刑にしろだの、猫の方がかわいいだのと言っておきながら、自分が窮地に立つといきなり寄付を言い出すのは絶対にマイナスです。金で幕引きをしているように見えます。金のある人の絶対にやってはいけない行為です。

 なぜ彼のような、30代のリーダーが、年寄りの頑迷な経営者のような、時代錯誤な解決の仕方をするのでしょうか。彼は発言するたびにどんどん墓穴を掘っています。

 経営者に対して啓発本を出して成功していた彼の本心はこんなものだったのでしょうか。

 いじめられていた子供が、努力をして成功すると、いじめる側に立って弱者を攻撃する。と言うのは、日本では自由も平等も心底根付いていない証拠なのです。明日はそのことをお話ししましょう。

続く