手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

人に迷惑をかけてはいけない 3

人に迷惑をかけてはいけない 3

 

 18世紀末になって、王政が崩壊し、資本主義が盛んになり、大きな工場が出来て、膨大な工業製品を生み出し、その販路として当初は植民地を作って、工業製品を売り捌きます。

 工場を持たない国の人々にとっては、工業製品は、布地にしても、鉄道にしても、蒸気船にしても、どうやって作ったのか見当もつかないくらい高級品に思えたでしょう。当初工業製品は良く売れましたが、すぐに頭打ちになります。

 なぜか、買い手の賃金が低すぎて買えないのです。植民地の民は信じられないような低賃金で働かされています。国内の労働者も同様です。彼らは自分たちが作ったシャツもドレスも買えないのです。

 資本家が富を独占して、労働者を劣悪な賃金で雇っていては、いつまでたっても工業製品の買い手が育たないのです。

 実は生産者は消費者でもあるのです。資本主義が発展するためには、国内に中流家庭を育てなければ産業の発展はあり得ないのです。そのために賃金闘争が頻発します。

 そしてその矛盾を突くかのように第一次世界大戦以後、ヨーロッパで社会主義運動が起こります。

 社会主義と言うのは、資本主義の矛盾を突いて生まれて来たイデオロギーです。金持ちが自分の資本で工場を作り、製品を販売する限り、利益は金持ちに渡るばかりで、労働者はいつまでも手間賃以上の収入になりません。

 労働者は低い賃金で働き、一たび災害があればたちまち困窮してしまいます。貧困層が増えれば犯罪が多発し、就学できない子供が増えて、治安は悪くなり、結果、政府は治安維持に税金がかかります。

 社会主義は、農地も資本もいったん国のものとして、個人のすることを国が管理し、国が工場を作り、農地を管理し、そこで労働者が働き、平等に賃金をもらいます。工場製品や農産品から出た利益を、労働者の福利厚生費や、病気の治療、子供の教育費に回せば、世の中の貧困はなくなり、誰でも能力に合わせて、機会均等に成功がつかめるだろう。と考えたのです。

 社会主義は、一見わかりやすい思想なため、一気に労働者の間で広まります。

 こうした考えが起こると、資本家は個人の財産が犯され、革命に怯えるようになります。労働者は「平等」を盾に社会主義を訴えます。平等と言われては資本家は反論が出来ません。 

 そこで先進国の政府は資本家と労働者の考えの折衷案を考え出します。つまり税金によって福祉を取り入れる方法です。

 税金から、福祉や、医療保険、失業保険を出して、国民に富の再分配を図ります。つまり今日、多くの政府がしているような形態を作り出したわけです。

 

 世界中に、資本主義国と、社会主義国がありますが、初期のような完全な資本主義の国と言うのはありません。同様に、完全な社会主義の国と言うものもありません。

 資本主義も社会主義も百年の時を経て、今では互いの政策を取り入れています。

 実際日本でも、税金から支払われる医療保険や福祉の費用の比重は大きく、年間予算が約百兆円であるのに対して、35兆円が社会保障費用に使われています。教育費などと合わせると約40兆円近くが使われています。

 日本は資本主義国家ですが、税金から見たなら、実は日本は既に40%が社会主義化しているのです。

 

 一方、ロシアを見ると、国の政策で社会保障は充実していますが、肝心の税収を得るための経済が不安定です。

 昔から計画経済を立てていますが、計画が計画通り達成できないのが社会主義の弱点です。経済は巨大で複雑怪奇です。それをテーブルの上で役人が企画を立てても、理屈通りには進みません。うまく行かなければ平等の思想は崩れます。

 社会主義国にも立ち廻りのうまい人がいて、巨万の富を築き

上げる人が出て来ます。富を維持するために役人を賄賂で抱き込んで権利も富も手に入れます。そうなれば平等も、社会主義思想も崩壊します。

 中国も同じです。計画経済はことごとく失敗します。然し、社会主義の国は、一党独裁国家ですから、国の失敗を批判する勢力がありません。政府は計画経済の成功を高らかに宣言しますが、その裏で餓死者が続出します。批判する人があれば拘束して数日後には川に死体が浮かびます。

 平等とは名ばかりで、暗黒の政治が続きます。結局、役人がプランを立てるよりも、経済は能力ある人の自由裁量にした方がいいと言うことになり、中国も資本主義を取り入れたことで初めて経済が安定して行きます。

 

 随分と長い話をしましたが、何が言いたいのかと言うと、自由も平等も、簡単には手に入らないと言うことです。人は長く戦いを続けてきて、ようやく今の生活を手に入れましたが、だからと言って自由も平等も完ぺきに手に入れたわけではありません。

 一見イデオロギーや経済の充実が自由や平等を約束すると思えても、ロシアや中国に自由や平等が行き渡っていないのを見れば、イデオロギーは怪しいとわかります。人の心の内側では依然と不平等がはびこります。

 初めの小学校のいじめの話にしても、今現実に起こっている話です。依然として人は隣人の自由と平等をいとも簡単に侵しています。弱者や仲間が生きる権利に関してあまりに鈍感です。

 それは、無知な人がしているのでなく、高学歴で社会的に地位の高い人ですら底辺に無理解や差別を内包しています。

 

 それでも最近の救いは、SNSなどによって行き過ぎた考え方をする人に対して批判が集中することです。但し、これも行き過ぎればファッショになります。

 ネット民と称する人は一見善意でことをしているように見えますが、その実新たな差別を合法的に作り出しているのです。早くにルールを作っておかないと、とても危険なことになります。

 世の中にはストレスのたまった人がたくさんいます。そうした人が、何かあればこれ幸いとネットで人を叩きまくります。正義を持てば何を言っても許されると勘違いをします。

 一方、社会で成功した人は、自分の考えが通るようになると急にわがままになります。弱者の配慮など消えてしまい、自己主張ばかりするようになります。

 こうした人が間違った発言をすると、たちまちストレスをためたネット民の餌食になります。彼らにとって力のある人が引きずり降ろされることは快感なのです。どっちもどっちですが、放置していれば犯罪につながって行きます。

 気を付けてください。自由も平等も天から与えられた権利なのです。人間ごときが自由を侵し、弱者を貶める権利などないのです。

続く