手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

日本発見

日本発見

 

 日本史では1543年と言う年は、種子島に流れ着いたポルトガル人によって、鉄砲が伝来した年と記憶されています。然し、ポルトガル人が日本にたどり着いたのは別段、日本人に鉄砲を伝えてあげようと言う親切心で来たわけではなかったはずです。彼らの目的は交易であり、あわよくば侵略をしようと狙って来たのです。

 この時ポルトガル人は初めて日本人に遭遇したのです。但し、ポルトガル人はそれ以前にも日本人を見ています。ルソン島や、ベトナム当たりの町で多くの日本人が働いていました。ポルトガル人は日本と言う国があることは昔から中国などから聞いて知っていました。例えばマルコポーロの見聞記などによって、その存在は欧州にも知られていたのです。

 当時は大航海時代です。1492年にコロンブスによってアメリカ大陸が発見され、以降、スペイン、ポルトガル、イギリスなどが先を争うように船を作って西に東に版図を広げるために活動していました。つまり領土争いが始まったのです。

 それが、たまたまポルトガルの船が難破して行き着いた先が種子島だったわけで、西洋史で言うと、この時日本は発見されたのです。

 日本人からすると奇妙です。発見されるも何も、日本人は何千年も前から日本で活動していたわけで、何も西洋人に発見されたからどうと言うことはないのです。

 但し、西洋の考え方と言うのは、あくまで西洋人が発見したものでないものは世の中には存在しないのです。具体的に地図上で経度緯度がはっきりしないまま、漠然とその辺に日本がありそうだと言うものは、ないも同じなのです。

 それはアメリカ大陸も全く同じです。コロンブスに発見されるよりもはるか昔から現地民はアメリカで生活をしていたのです。アメリカ大陸の発見者は現地民です。

 始めにスペイン人がアメリカに着いたのは、小さな島だったのです。そこにはわずかな人数で生活している部族がいて、スペイン人は彼等を恫喝して食料や、娘を連れ去って行ったのです。現地民を見つけると、スペイン人は銃で狙い撃ちし、その日何人現地民を殺したか仲間同士で自慢し合っていたのです。

 彼らにとっては現地民は人ではなかったのです。多くの現地民は捕まえて奴隷にして、現地で使うか、本国に売りさばいたのです。

 然し、アメリカ大陸に入って、大きな部族と接するようになると、数の上で無謀なことはできないと知り、先ず宣教師を先に派遣します。そしてキリスト教によって人類愛を説きます。

 言葉を教え、道徳を教えた上で、話が分かるようになると、現地民を労働者として、植民地内に作った農園や、鉱山で働かせたのです。無論、働く以上は賃金を支払いますが、奴隷と労働者の差はわずかでした。

 

 このやり方を覚えたスペイン、ポルトガル人は東洋にも進出し、アメリカと同様に植民地の開拓を行いました。ある地域ではそれも成功し、オランダなどは東インド会社と言う株式組織まで作り、アジアとの貿易で莫大な富を得ました。

 そして、アメリカ大陸発見から半世紀経った1543年に、ついに極東の日本にまで到達したのです。然し、中国や日本の生活を見ると、彼らをアメリカ大陸の少数部族のように威嚇や殺戮で制圧することはできないと知ります。中国や日本は文字を持っていて、読み書きができますし、商業、経済活動が盛んですし、指導者存在し、軍隊も持っていて、国家として成り立っています。文化程度は欧州と変わらなかったのです。

 日本人を力づくで支配するのは無理だと知ったポルトガル人は、日本に宣教師を派遣し、宗教で懐柔を計ります。年代に違いはありますが、フランシスコ・ザビエルや、ルイス・フロイス等の宣教師達を日本に送り込みます。

 時あたかも戦国時代ですが、宣教師たちは、争うことの無意味を語り、人類愛を語ります。日本人の中には少しずつですがキリスト教を信じる人たちが増えて行きます。

 

 然し、彼らの目的は日本に人類愛を広めることではなかったのです。話は全く逆で、彼らはアメリカ大陸で行なったように、人を奴隷にしたり、地域の特産品を独占して本国で売りさばくことを目的としていたのです。

 日本は当時、金銀が多量に産出されたため、彼らは日本の金銀を求めました。然し、時にあまり多くの交易品が集まらない時などは、日本人の女子供を浚って、奴隷にして南方に連れて行き、売りさばいていたのです。キリストの宣教師たちの生活費や維持費は奴隷業者の支援金から出ていたのです。

 

 天正14(1586)年。豊臣秀吉が、九州征伐のために、博多に大軍を向けたときに、ガスパール・コエリョと言う、野心満々の宣教師は、博多湾に西洋帆船を運び、秀吉を船に乗せ、「どうです、このくらいの船が三艘もあれば、簡単に博多の町くらい占領できますよ」。と言ったのです。

 当時朝鮮征伐を考えていた秀吉は、外洋に出るために西洋帆船を求めていました。然し、宣教師の口から砲艦の威力を語られた時に、彼らの本心を知ることになります。

 

 更に翌年、九州の南端にポルトガルの船が遭難し、その中にたくさんの日本人の子供が乗っていることが判明します。情報を聞いた秀吉は、「なぜポルトガルの船に日本人の子供が手を縛られて乗っていたのか」。とコエリョに尋ねると、コエリョは、慌てまくって、答えにならないようなことを言って弁解したそうです。

 そこで秀吉は、激しく激怒し、キリスト教を欺瞞と決断し、布教禁止令を出すに至るのです。

 

 日本の歴史教科書では、キリスト教徒が虐待され、何十人もが殉教したと書かれています。豊臣秀吉は人道に反した行いをした。そうでしょうか。秀吉も家康もキリスト教を禁止したのは、キリスト教が人類愛を語るとき、それは人類(西洋人)に対しての愛であって、有色人種は人ではないと見ていたからではないでしょうか。

 アジアの中で日本が西洋の植民地にならなかったのは、秀吉、家康がキリスト教の欺瞞に気付いて南蛮(西洋)人との交流を断ったからではないでしょうか。そうなら鎖国は正しい決断だったことになりますし、秀吉の行いは救国の指導者だと言うことになります。日本は加害者ではなく、被害から身を守ったのです。日本の教科書は一行でもそのことを書き加えるべきです。

続く