手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

たけしさんの映画「首」

たけしさんの映画「首」

 

 去る15日、新宿に行く用事があってその後、世界堂に寄って買い物をして歩いていたら、ガラス張りのビルが目につきました。元東映映画館だったところが今はバルト9と言って複合ビルになっています。建物が出来たことは大分前から知っていましたが、中の上層階に映画館が幾つもあることを初めて知りました。映画館は健在だったのです。

 私は、地方都市に行って、時間を持て余したときなどに映画館に入ることはあります。東京で中心街に出たときには時間にゆとりがないためか、めったに映画を見ることがありません。

 ポスターを見ていると、ゴジラと窓際のトットちゃんが上映中です。もし時間が合うなら見ててみようと思い、9階へ上がりました。エレベーターのドアが開くと、かなり広いエントランスになっていて、チケット売り場や、売店が並んでいます。きれいな休憩所になっています。ここから9つの映画館が分かれていて、それぞれ入場するようになっています。と訳知りのように説明していますが、多くの皆さんには周知の事実でしょう。私が知らないだけだと思います。

 さて、ゴジラは、午前中に一回、その後は夜9時に一回上映します。窓際のトットちゃんはどうかと見ると、これも午前中と、夜遅くの上映です。驚いたことにどの映画も一日に二度か三度しか上映しないのです。今午後3時30分です。9時まではとても待てません。

 そうなると、私のように思い付きで入って行って、すぐに見ようなどと言う考え自体が古いのでしょう。きっと事前にスマホで時間を調べてやって来るのでしょう。スマホを持たない私にはどうにもなりません。帰ろうか、と思っていたら、北野たけしさんの「首」をやっています。4時15分からです。少し待って中に入ることにしました。

 たけしさんの映画を見るのは久しぶりです。テレビで数日前に「首」の見どころを特集していました。予測できない展開と、迫力の映画、ギャグも入って楽しめると言うことでした。

 劇場は70席の小さなものでした。平日にもかかわらずかなり入っています。

 合戦シーンなどは規模が大きく、馬と兵をたくさん使って、とてもたけしさんのこれまでの映画とは思えません。音響の迫力がものすごく、これはしっかりとした劇場で見ないとこの迫力は味わえません。但し、矢張りたけしさんの映画です。タイトルが首と言うだけあって、やたら血が流れ、首が飛びます。全編たくさんの人の首がめったやたらと飛びます。

 これでは、女性客に嫌悪感を持たれるでしょう。川の浅瀬に倒れている侍の首なし死体に沢蟹が群がって、首の中から蟹が出入りしているのをクローズアップで撮ります。そんな映像が必要なのかどうか。どうも昔からたけしさんはSMの要素を強く感じます。

 それを引き受ける役者たちも、嬉々としてたけしさんのサディズムを受け入れています。この流れは、昔、風雲たけし城と言うテレビ番組で、弟子たちを水攻め、火攻めにして喜んでいたたけしさんのあの姿そのものです。

 

 また、信長と光秀と荒木村重がゲイの三角関係のもつれで、愛憎からみ合うと言う突破ずれた発想が話の核になっています。実際、光秀と村重のセックスシーが出て来たり、信長と蘭丸の交尾が露骨に写されます。更には、NHKの朝の情報番組によく出て来る正直そうな黒人のお兄さんとのセックスまでもが続きます。この人はこんな役で映画に出て、NHKをしくじらないのでしょうか。

 LGBTが話題になっているからと言って、ゲイネタが延々続くのは嫌悪感を持つ人が多いのではないでしょうか。これで果たして多くの観客を動員できるのかどうか。

 ところどころ、たけしさんは黒澤明監督を意識してか、リアルな戦国時代を表現しようとしている風に見えます。鬘の月代(さかやき)を大きく剃り上げているところが七人の侍を思わせます。黒沢監督も、残酷シーンが出てくるところがありますが、黒沢監督にはある種の節度があります。

 どうもたけしさんの映画は残酷が生ですし、興味本位です。そもそも、信長の捉え方が余りに浅薄です。加瀬亮演じる信長からは才能も見えなければ、人の心を掌握するリーダー性も見えません。めったやたらに家来を殴りつけます。あれでは全くの三下やくざです。

 信長には狂気の一面はあっても、行動は常に合理的で理性的な人です。同時代に生きた宣教師ルイスフロイスなどは、日本人の中で最も聡明な指導家だ。と褒めています。然し、たけしさんは侍は所詮やくざ者だ。という主張を押し通します。

 一人、西島秀俊演じる光秀のみが理性の人で、やくざ世界の中にいて、光秀の理性が破壊されて行く。本能寺はその帰結だ、と言うことでしょう。なるほど、でも、そのために信長を完全なやくざにしてしまったのはどうでしょうか。

 更に、たけしさんが自ら秀吉となって、光秀を操っていたと言うストーリーは、歴史の結末を知っている後世の人が考える発想でしょう。秀吉が余りに訳知りの哲人になっていませんか。目の前に信長と言う巨人がいて、その家来として駒となって働かされていた秀吉にすれば、目先の命令に従うのが精いっぱいで、広く世の中を見通していたとは考えられません。

 秀吉も、光秀も、家康も、信長のように先を見通す目は持ってはいなかったでしょう。それゆえに、本能寺の変は、世界史で言うならケネディ大統領の暗殺にも匹敵するような、日本史の一大事件だったのです。それほどの人物をやくざ扱いしてしまっては、作品そのものが貧弱になってしまいます。

 尤も、たけしさんは、「面白けりゃいいんじゃねぇの」。と思っているのかも知れません。映画は娯楽と割り切っているのでしょう。随所にギャグも入っていますが、そのギャグが、一緒に見ている観客はギャグと思しき部分に全く反応を示さず、冷静に眺めていました。

 信長がべたべたの名古屋弁を使っているのに、同郷の秀吉が、なぜ標準語なのかも不可解です。誰もそのことを指摘しないのでしょうか。たけしさんが構成監督を務め、資金を引っ張って来て作っている映画で、しかも役者はたけしさんの眼鏡にかなった人だけを集めたわけですから、誰もたけしさんの芝居に異を唱える人がいないのでしょう。

 結果たけしさんは裸の王様になってしまっています。でも、映画監督と言うのは、独裁者でなければ成り立たない仕事なのでしょう。そうならたけしさんは映画監督を全うしていることになります。

 でも、それもこれも、出来た映画が目の醒めるような素晴らしい映画になったなら監督の独裁は称賛されるのだと思います。日本の歴史も、優れた技量を持つ俳優も、みんな一緒くたにして、泥まみれ、血まみれにして、谷底に突き落としたような映画を作って、これが本当にいい映画なのかどうか。疑問ばかりが残りました。

 この日、ゴジラが見られなかったことを残念に思いました。

 続く