手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

どうした家康

どうした家康

 

 時々NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ていますが、今までにない視点で歴史を掘り下げようとしているところが面白く、初めは熱心に見ていたのですが、話が進んで行くに従って、どうも違和感ばかりが目立つようになりました。余りに無茶な話の展開で、話の辻褄が合わなくなり、今ではこのドラマに違和感ばかりを感じます。

 秀吉役のムロツヨシがアフロヘアで出てくるのがまず変。初めから腹黒い役に仕立ててあるのもまた変。秀吉と言う人は、少なくとも山崎の戦(明智光秀との戦い)までは自分の本性を隠し続けた人です。それまでは徹底した人への気遣い、こびへつらいをし続けた人です。ムロツヨシはあまりに違いすぎます。

 変と言えば、出演者全員の髪型が、初めはみんな総髪で出ていたのに、途中から月代を剃るようになったのは余りに違和感を感じました。初めから、最低限の時代劇のルールを守ってはどうでしょう。

 昨日の本能寺の変では、無理無理本能寺の変に家康をかませようとして、家康対信長の戦いに仕立てようとしていますが、それは不自然です。この時点で、家康が信長に不信感を抱いていたとするのは、間違いではないにしても、謀反を起こそうと考えるまでには至っていません。

 本能寺の変に際して、信長は手兵100人程度で本能寺に滞在していたわけで、同様に家康は、家来30人程度で堺見物をしていたわけです。この人数で信長を倒そうと考えていたとは、発想に無理があります。むしろ話は逆で、思いもよらない本能寺の変で、この後、家康自身が命を狙われることになるわけですから、信長を倒そうなどとは思ってもいなかったでしょう。

 

 現代人の目で、歴史を見ると、結末を知っているゆえに、ついつい明智光秀が出て来て信長を倒すことが必然のように思われますが、これは当時の人々には、青天の霹靂だったと思います。天正と言う時代は、信長が次々に打ち立てる改革案に沿って、日本がどんどん変わって行った革新的な時代でした。

 小さな領主が跋扈していた時代に、次々と地元の顔役のような侍を信長が倒して行って、東は甲斐、信濃(山梨、長野)から、西は備前(岡山)まで、統一した国を作り上げます。同時に、宗教は、本願寺も、比叡山も、仏事を超えて権威を誇る勢力を徹底的に倒します。公家は形ばかりのものにして追いやり、経済を普及させるために諸税を撤廃し、全く今までなかった世界を作り上げようとしていました。

 対する明智光秀は、明らかに旧勢力の人で、元々、15代将軍(候補だった)足利義昭の用人として、長い間不遇の義昭に従っていた人です。光秀の前半生は、消えかかっていた足利将軍の権威を何とか復活させることが最大の目的でした。信長との接触も、信長が、足利を盛り立ててくれると知ったから接近したのです。その実、信長は、権威を利用して、京に上って号令をかける大義名分が欲しかったのです。

 信長にすれば、足利将軍家を復活させる意思などなく、本心はむしろ旧勢力をすべて抹殺することにあったのです。

 然し、光秀はそうは考えず、信長は足利を助けるいい人だと信じていたのです。光秀には、足利幕府体制以外に日本を治める政治スタイルなど考えられなかったのです。室町時代以来の大名、三好、六角、浅井、朝倉などの有力大名と仲良くして行くことが、光秀の仕事だったのです。

 時代が進むにつれ、信長によって光秀の人脈が次々に滅ぼされて行き、足利将軍まで追放されるに至って、光秀は、信長の生き方が全く理解できなくなって行きます。特に比叡山の焼き討ち以降、光秀は、信長の行動が理解できず、方向が見えなくなって行きます。

 然し、そう思いつつも、信長のやっていることはズバリズバリと世の中の核心を突いて、当たり続けています。世の中は間違いなく信長の企画に沿って進んで行きます。

 光秀は、「こんな社会は間違っている、何でも破壊すればいいと言うものではない。旧勢力と新しい勢力が仲良く暮らして行ける国作りこそ大切だ」この時代で、最も優秀かつ常識人である光秀は、そう考えたのでしょう。

 逆に、秀吉は、信長の方針には大賛成です。信長の家臣の中で数少なく、将来が見えた人です。では、家康はどこまで信長の考えが理解できていたでしょうか。私が見るところ、家康は、光秀と同じで、旧勢力と結びついて、足利幕府のような体制を維持したかったのではないかと思います。

 実際、家康は、数十年後、江戸幕府を開いたときには、たくさんの大名との連合国を作ったわけです。

 もしそうであるなら、畿内(関西地域)と尾張、美濃(中京地域)を制した信長は、もう戦いをやめて、地方の大名に呼びかけ、合議制の幕府を建てればいいのではないか。と考えるのが普通でしょう。室町幕府がそうであったように、ここらで連合政府を作るのが、古来の日本の政治だったのです。

 ところが信長にその気持ちは毛ほどもありません。信長はすべての領地を信長の直轄地にしたかったのです。辺境の地にある、島津も伊達も、寸土たりとも与える気持ちはなかったのです。そればかりか、信長の家来たちも、領地は与えても、すぐに国替えをさせて、長く統治をさせなかったのです。信長の考える天下統一は、連合国ではなく、あくまで信長一人の独裁国家だったのです。

 光秀も、家康も、そうした信長の考えに信頼を置いていたわけではありません。実際、光秀自身も、本能寺の変の少し前に信長から、福知山城を取り上げられて、まだ領地にすらなっていない九州の地を与えられると命じられた時に、「あぁ、この人に付き合っていたら、やがてはつぶされる」。と思ったのです。

 飛び抜けた信長の発想に、常識人の光秀はついて行けなかったのです。光秀謀反の深層は、福知山を取り上げられた時の失望が大きな原因でしょう。まるで追いつめられるようにして、本能寺の変を起こし、幸いにも光秀は千載一遇のチャンスをものにして、信長を倒しました。が、然し、その先、どんな風に日本をまとめて行ったらいいのか、そのビジョンは、と問われると、彼には新しい発想がなかったのです。

 その役を担ったのが秀吉だったのです。ここは信長の遺志を継ぐ。という人が、次なる天下人だったのでしょう。秀吉は、山崎の戦までは、信長の継承者でした。光秀を倒して以降、秀吉は徐々に本当の姿を見せるようになります。但し、その姿はアフロヘアーのムロツヨシではありません。余りに不遇な人生を繰り返してきた劣等感の塊のような男が、初めて手にした権力です。ねじ曲がった性格が、次々に破滅に向かう行動を取って行き、日本の進路を曲げて行くのです。秀吉は信長の継承者と称してはいましたが、それは模倣をすることが精一杯であり、決して信長の政治の本質を理解してはいなかったのです。

続く