手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

佃の渡し 1

佃の渡し 1

 

 私の家には10枚ほどの浮世絵があります。ある人に譲ってもらったのですが、いろいろ怪しいものも合わせて知人から何十万円かで買ったものです。一枚は火焔不動。これは九代目団十郎が演じた歌舞伎十八番の一つで、「不動」と呼ばれる芝居です。

 どんな芝居かはわかりませんが、九代目が火焔不動に扮して舞台中央にいて、睨みを効かせるのだそうです。すると当時の観客はみんなで舞台にお賽銭を投げて拝んだそうです。然し、芝居の内容はいまだにどんなものかわかりません。

 内容よりも、九代目が火焔不動になったことが当時は話題だったのです。現代の感覚で言うと、キムタクが岐阜で織田信長に扮して武者行列をしたような、あのフィーバーに近いものなのでしょう。岐阜では毎年この祭りをしていて、その都度有名な俳優に信長に扮してもらって町をお練りしています。

 常に、町の主役は織田信長でなければならず、今回、信長を演じる役者はキムタクでなければならないのでしょう。この二つの人物が合体したときに、とんでもないパワーが発生して、岐阜市の人口以上の観光客を集めてしまったわけです。

 元々、井口(いのくち)と言っていた岐阜市を岐阜と改めたのは織田信長です。それは、それまで美濃(みの=岐阜県)一帯を治めていた斎藤龍興(たつおき)を制して、信長が美濃を手に入れたためです。斎藤の初代は斎藤道三と言い、一介の油売りから身を起こし、侍となり、謀略を駆使して美濃一国の領主となった男です。

 作家の司馬遼太郎さんが、斎藤道三にほれ込み、「国盗り物語」と言う小説を残しています。本来なら、岐阜市民はこの斎藤道三こそ時代まつりの主人公に据えるべきなのですが、道山の人生は謀略の繰り返しで、実に暗いのです。道三を褒めるのは司馬遼太郎さんくらいのもので、世間からは嫌われています。

 一国の領主になったことは立派ですが、その手段が余りにアコギで、生前から「蝮(まむし)の道三」と言われて嫌われていました。あだ名も愛嬌があれば許されますが、名前にマムシがついては救いがありません。

 マムシは常に目を見開いていて、舌をぺろぺろさせていて、どう見ても理屈の通らなそうな顔をしています。洒落や冗談など分からなそうです。山で出会ったなら避けて通るしか手のない相手です。

 後世、そんな武将を主役に据えても、祭りは盛り上がらないでしょう。そこへ行くと織田信長は颯爽としています。特に、岐阜を制してから、信長は、はっきり天下を取ると言う意思を表したようで、「天下布武(てんかふぶ)」と言う刻印を作って、自らの手紙には必ずこの刻印を押しています。この時信長33歳です。

 33歳で、人に手紙を出すときに、「自分は天下を取ります」。と刻印して送るのですから飛んでもない人です。話は横道にそれましたが、岐阜のスターは信長です。それをキムタクが演じたのですから、大騒ぎになったのは当然です。人が横倒しにならなかったのは岐阜県警の見事な統制の成果でした。

 

 さてあと二枚は、広重の浮世絵です。一つは「佃の渡し」、もう一つは、「両国橋の夕涼み」です。佃島は今では埋め立てが進み、ほぼ陸続きになっていますが、それでも佃大橋があって、橋によって島であったことが分かります。

 江戸時代の佃島は文字通り離れ島で、隅田川が運んだ砂で出来た中洲がいつしか島になり、江戸湾にぽっかり浮かんでいました。徳川家康が江戸の入ったころ、江戸は小さな漁村で、湿地帯に葦が生えていて、およそ耕作には適さず、見渡す限り濛々と草の生えた土地でした。

 これを人が住めるようにしなければなりません。江戸を湿地にしていた原因は、隅田川です。隅田川利根川と繋がり、当時は江戸湾に直接流れていました。利根川は水量が多く、ひとたび氾濫すると、東京の東側全域まで水が冠水し、実際多くの土地は沼地でした。今よりはるかに大きな川だったのです。

 家康はこの川を、少し上流の関宿と言うところから、東に分水して、利根川の水の大半を太平洋に流しました。大工事です。これによって、江戸周辺は水害が格段に減り、人に住める土地が増えて行きます。

 この水路の拡張は、水害だけでなく、もっと大きな効果を生みました。当時、江戸に大量の米を提供できるのは仙台でした。伊達政宗が開墾を奨励し、仙台は巨大な穀倉地帯に発展していたのです。然し、ネックとなっていたのはその輸送手段です。

 それまで、仙台の米を江戸に運ぶには、太平洋を通って房総半島を旋回し、江戸湾に入っていました。然し、ご存じのように九十九里浜が長大な浜で、寄港地がないため、この近辺で暴風雨に会うと、船が難破して人も米も被害を被っていたのです。

 ところが内陸で太平洋岸の銚子から江戸まで水路がつながったため、仙台の船は、銚子で川船に米を移し、銚子から利根川を上って関宿に行き、関宿から隅田川に方向を変えてからは一気に江戸まで下っため、危険のない状態で大量に米を運ぶことが出来るようになりました。これによって江戸市民は米の不安が解消されるようになりました。

 さらに江戸の政府は、多くの家臣が江戸に住むようになると、あらゆる食料の不足に悩みます。当時の江戸湾はのぞき込むと手で掬えるほどに魚が溢れていたと言います。然し、漁の技術が未熟なために大量の漁獲が上がらなかったのです。

 そこで、政府は大坂の佃村から漁師を江戸に連れて来て、江戸湾に浮かぶ島に移住させます。その時、漁師の故郷にちなんで、島を佃島と名付けます。漁師たちは、自分の国の神社も運び、住吉神社佃島に建てます。

 広重の浮世絵には、佃島住吉神社に向かう江戸の市民が、渡し船に乗って景色を眺めながら佃に向かっている姿が描かれています。日本橋から目と鼻の先にある佃は、渡し船に乗らなければ行けない島だったのです。

 浮世絵に描かれた海の先には佃島があり、島の中央に住吉神社が見えます。今見たなら何のことはない小さな神社ですが、当時、江戸市民にとってはささやかな観光旅行だったのでしょう。

 佃の漁師は進んだ大坂の漁業の技術を駆使して大量の魚を江戸に提供するようになります。今でも佃の住民の多くは、江戸初期に大坂から移住してきた人たちの子孫です。

 ところで、当時、佃の漁師は売り物にならないような小魚を自宅で食べていて、それは醤油で煮付けて食べていました。これを日本橋の商人が目を付け、醤油だけでなく、水あめなどを混ぜて甘辛くして試しに販売すると、飛ぶように売れました。商人はこれを佃煮と名付けました。

 佃煮はかなり長く日持ちするため、その後、住吉神社の土産にもなりましたし、江戸参勤の侍が国へ江戸土産として持って帰るようにもなったそうです。

続く