手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

菜の花の沖 その1

菜の花の沖 その1

 

 私の親父は毎日博打をして、夜には酒を飲んでひたすら遊んでいる芸人でしたが、全くの怠け者と言うわけでもなく、唯一、本を読むことが好きでした。どこに行くにも常に単行本を持って歩いていました。楽屋でも用事のないときには単行本を呼んでいました。多くは時代小説で、山手樹一郎だの海音寺潮五郎だの司馬遼太郎だのを熱心に読んでいました。

 金のない親父は読んでしまうとすぐに古本屋に売りに行き、代わりの本を買って来ます。そのため親父の書棚は何年経っても本が増えません。よほど感動した作品だけが売らずに並んでいました。

 中学生になったある日、私は親父が一体何を熱心に読んでいるのかと、親父の本棚から一冊本を取り出して読んでみることにしました。それが「梟(ふくろう)の城」と言う、司馬遼太郎の作品でした。その内容の面白さは、他の荒唐無稽にチャンバラ小説、若様侍捕り物帖だとか、新伍十番勝負などと言ったものとは一線を画した作品で、実に詳しく資料を調べ上げて話をまとめていました。

 私はすっかり司馬遼太郎のファンになってしまい、やがて「竜馬がゆく」、であるとか、「峠」、「坂の上の雲」、と言った長編歴史小説を読むに至りました。20代以降は自ら買って読むようになり、私の買った本を親父が借りて読むようになって、立場が逆転しました。

 

 40代になって買った本で、「菜の花の沖」と言う作品があり、これはこれまでの司馬遼太郎の作品とは一線を画す独創的な作品でした。私はいろいろな点でこの作品に大きな影響を受けました。

 そこには侍がほとんど出て来なくて、チャンバラも全くなかったのです。それでも面白くて、毎日毎日、次のページをめくるのが楽しみで、ワクワクしながら読み続けました。私は今でもこの作品が司馬遼太郎のベスト作品ではないかと思っています。

 江戸時代の商品の流通経路を詳しく調べ、主人公の嘉兵衛を通して品物がどう流れて行くのかが詳しく書かれています。その上、千石船と呼ばれた廻船の構造から、当時の船乗りの給金、身分迄、細かく調べられていて、この作品一つで江戸時代の経済がよくわかるようになっています。

 

 主人公は高田屋嘉兵衛と言う一介の船乗りで、後に大商人になった人です。江戸時代の半ば、1761年に淡路島に生まれています。貧しい農家のため、口減らしに船乗りになり、近郷の船頭に雇われ、炊(かしき=船乗りの見習い)となります。

 当時の淡路島は、菜の花の栽培が盛んでした。菜の花は菜種を根っこに実らせます。これが菜種油の原料となり、絞って油にして、灯火として全国に売られていました。ところが、菜種は脂分が強いため、連作をするとすぐに土が痩せてしまいます。そのため、干鰯(ほしか)と言う肥料を買って、畑に撒かなければなりません。

 干鰯と言うのは、鰯(いわし)を絞って油を取った残りかすで、腐りやすい鰯は、新鮮なうちは食用として店で売り、売れ残ったものは脂を取って灯火としたのです。菜種油がほとんど無臭な脂で、高価に取引されたのに対し、鰯脂は魚臭いため、安価で、庶民が灯火として使いました。

 その油を取った残りかすが干鰯です。粉末の削り節のようなもので、これを畑に撒くと良い菜種が取れます。江戸の中期で既に農業は肥料を使わなければ生産が上がらなかったのです。瀬戸内周辺の農家では、菜種の他に、綿の生産が盛んで、ともに脂分の強い作物のため、肥料が必要で干鰯はよく売れたのです。

 嘉兵衛を雇った船頭は、兵庫にある干鰯の卸元から干鰯を仕入れ、瀬戸内の農家に卸していたのです。そしてその帰り船に油や木綿を仕入れ、同じく兵庫の問屋に運んでいたのです。

 やがて嘉兵衛は腕のいい船乗りに成長します。ある日、その問屋の主から見込まれ、廻船と言う大きな船に乗らないかと誘われます。廻船とは千石船のことで、兵庫の北風家と言う廻船問屋は千石船を何艘も持つような大商人でした。そのうちの一艘を嘉兵衛は任されます。

 千石船は兵庫から瀬戸内海を廻り、下関から日本海を北上して、蝦夷松前まで行って交易をします。蝦夷では当時鰊漁が盛んで、鰊は絞って油にし、残りの身は干鰯にします。鰊の干鰯は鰯よりも脂分が多く、上等とされました。他にも、蝦夷では昆布、毛皮などが取れます。

 蝦夷地は寒冷のため米がとれず、又、衣類が不足していました。大坂で米、古着を仕入れ、蝦夷地まで行き、干鰯と昆布に変えて兵庫まで帰って来ると仕入れの三倍以上の利益があったと言います。

 利益の大きい千石船でしたが、その分危険も大きく、日本海の荒波は多くの船を難破させました。嘉兵衛は抜群の腕前で、毎回安定した航海をして兵庫に戻って来ました。嘉兵衛に対する信用は厚くなり、やがて、廻船問屋から独立して船持ち船頭になります。兵庫に高田屋と言う店を出し、大きく商いを始めます。無論これまで世話になった問屋には特別に仕入れた商品を安く卸したりもします。後に松前にも函館にも支店を出し、高田屋は大手商社となって行きます。

 折から田沼意次の時代で、幕府は蝦夷地の開発に熱心で、嘉兵衛を使って蝦夷の開発に乗り出します。蝦夷の内陸部を探索したり、択捉島国後島に出かけて、千島のアイヌ人とも交易をするようになります。

 

 さて私がなぜ「菜の花の沖」に興味があるのかと言うと、実は高田屋嘉兵衛が生きた時代と、蝶の手妻の完成者、柳川一蝶斎の時代が重なるからです。折から文化文政の時代を迎え、江戸文化が隆盛を誇ります。浮世絵、芝居、戯作本、手妻、落語、講釈などと言った芸能、芸術が盛んになって行きます。その時代に暮らしていた人々がどんな生活をして、どういう考えで生きていたのか。そこに私は大きな興味を感じていました。

 菜の花の沖を読んで行くと、当時の流通経路が決して単純なものではなく、極めて高度に成り立っていたことが分かります。江戸時代と言うと、地産地消が普通と考えがちですが、とんでもない話で、日本では戦国時代あたりから交易が盛んにおこなわれ、商品取引が行われていました。

 江戸に住む一蝶斎が、朝に食べる米の飯は仙台米で、醤油は野田や銚子産、上等なものなら紀州産。鰹節は鹿児島か静岡産。干物は伊豆か房総産。呑む酒は灘の清酒で、着物は、木綿の着物を、瀬戸内あたりの農村で綿花を作り、紡いで、阿波(徳島県)の藍玉で藍色に染めて反物に仕上げ、京、大坂の呉服問屋がまとめて江戸に送って江戸で売ります。江戸にあるもので地元のものなどはほとんどなく、日本中から集めてきた製品で生活が成り立っていました。

 我々はそれを当たり前と考えてしまいますが、18世紀でここまで流通経済が発展していた国はそうざらにはありません。そうした国に生まれたからこそ一蝶斎の蝶の芸が発展できたわけで、豊かな経済が文化文政の芸術を生んだわけで、決して成り行きで出来たわけではなく、むしろ世界的に見たなら奇蹟の国だったと言えます。

続く