手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

佃の渡し 2

佃の渡し 2

 

 佃の渡しと佃祭を巧くつないで人情噺に仕立てた落語に「佃祭」があります。

 毎年佃祭に欠かさず出掛けている神田の小間物屋の旦那が、家族に「帰りは、暮れ六つ(夕方6時)に出る終いの渡し船に乗って帰って来るから」。と言い残して出掛けて行きます。

 旦那はお参りをして、さて暮れ六つの船に乗ろうとすると、見知らぬ女性に声を掛けられます。話を聞くうちに、「昔、勤め先で集金した金をなくし、どうにもならなくなって、橋の上から身を投げようとして居たところを旦那に助けられ、五両もの金を恵んでもらい、そのまま名前も名乗らず去って行ったことがあり、今は人並みに佃で亭主と一緒に暮らしています。然し、助けてくれた旦那を忘れたことはなく、あちこち探していたところだった」。と言うのです。

 女は、お礼がしたいから家に来てくれと言います。旦那は勧められるまま家に向かいます。お陰で終い船に乗り遅れます。これで今晩中に佃島から帰ることは出来なくなります。

 然し、女の夫は漁師で、船を持っていますから、自前の船で送ると言われ、それならばと上機嫌で酒や佃煮をご馳走になります。そんな時に、外が騒がしくなります。何事かと外に出ると、終い船が人を乗せすぎて転覆し、乗客全てが死んだことを伝えます。旦那は女と顔を見合わせ、「あんたがさっき、俺に声を掛けて引き留めてくれたおかげで命が助かったんだ」。と感謝します。

 その後旦那は船で送られ、神田の自宅に戻ります。家では、いつまで経っても旦那が返ってこないため心配していると、佃の終い船が転覆して、乗客全員がおぼれ死んだと言う情報が入ります。これはもう助からないだろうと、お寺の坊さんを呼び、早速通夜を始めます。その読経のさ中に旦那は返って来て、一同ビックリ、旦那はいきさつを話し、昔の情けで人の命を救ったことが、今度は自分の命を助けられた、と話しをして、情けは人の為ならず。と、噺家が人の道を説いて、めでたしめでたしとなります。

 

 志ん生や、三代目金馬が得意にしていた話で、人情噺ですので余りギャグはないのですが、前半の旦那が夏の祭りに出かける楽しげな様子や、渡しに乗って住吉神社に出かける小旅行の気分が江戸時代の娯楽を巧く語っています。中盤で女が出て来てしみじみとした話になり、それが急転して渡し船の転覆になり、女の亭主や家族が協力して旦那を送って行く姿がいかにも情け深い江戸庶民を表現していて、いい話です。

 ストーリーから丁寧にディテールを語って行く金馬の落語は、当時の江戸庶民が物事をどんな風に考えていたかがよくわかる筋の組み立て方で、得意芸だけあって聞き応えがあります。

 方や、志ん生の方は、人物そのものにスポットを当てて、人の機微を面白おかしく語って行きます。大上段に人の道などは説かずに、気持ちのままに話が進みます。志ん生は決して女性表現など上手い人ではないのですが、聞いてゆくうちに、こんな人いるなぁ、と思わせる説得力があります。

 何にしても、長い噺ですので、よほど噺家に聞かせる能力がないとダレてしまいます。今ではめったに演じることのない話ですが、機会があれば現代の噺家で聞いてみたいと思います。

 

 佃の渡しの絵は、粋な女性の三人連れが船に乗り、船の上でシャキッと立っている姿が実に決まっています。夏姿でありながら、髪はきっちりとまとまっていて、さりげないお洒落を感じさせます。海のあちこちには、おびただしい数の大小の帆掛け船が浮かんでいて、当時の江戸の町は港湾都市であったことがよくわかります。荷を運ぶ大船に比して、佃の渡し船は貧弱なもので、恐らく10人から20人くらいが乗る小舟と思います。が、これに乗って佃まで出かけるのは、さぞや涼しくて気持ちがいいだろうと、爽快さを感じさせて、ウキウキします。

 

 もう一枚の広重は、「両国橋の夕涼み」の様子です。夕暮れに船を出して芸者を上げて、両国橋の下あたりで、旦那衆が船の上で遊んでいます。そのそばには水浴びをして泳いでいる庶民が何人もいます。人は思い思いに、夏の暑い日を涼を取って楽しんでいます。

 「両国橋の夕涼み」の絵は、大きな両国橋を一面に描き、その橋の下に無数の小舟が出ていて、どれもが遊びのために繰り出した船であるとみて取れます。遊びと言っても、屋根付きで、提灯を何十もぶら下げている大きな屋形船もあり、芸者を何人も乗せて贅沢な遊びをする旦那衆がいます。芸者や太鼓持ちを上げて、仲間を招待して、大きな屋形船を借り切って、酒や料理を振舞ったなら、その費用は現代の価値にして二百や三百万円はかかるでしょう。旦那は一体何をしてそんなに稼いでいるのでしょう。

 景色はもうすっかり暮れて来ていて、両国橋の上では足早に、家路に帰る人の群れがたくさんいて、夕暮れ時の江戸のせわしなさが分かります。天秤棒にものを乗せて、町中を売り歩き、そうして稼いだ金を一刻も早く家に持ち帰り、女房や子供や両親に晩飯を食べさせなければなりません。そのため両国橋を急いでいます。その橋の下にはそんな生活とは関係なく、派手に散在する旦那衆の船が見渡す限り隅田川に繰り出していて、生活の格差を見せつけます。

 佃も、両国橋もともに広重の浮世絵ですから、時代もさほど変わらないものでしょう。1840年代くらいでしょうか。当時の江戸は人口120万人。世界最大の都市でした。天保の飢饉はありましたが、大方の時代は太平で、生活も安定していました。明治になってから、天保老人と言うのが出て来て、「天保の頃は良かった」。としきりに述懐していたようです。そんな老人を周囲は天保老人と呼んでいたようです。

 私などはうっかりすると昭和老人と呼ばれそうです。「昭和は良かった」。などと自分が気が付かないうちに言いそうです。然しながら、私の頭の中で昭和は過去ではありません。ついこの間のことです。「ついこの間の話をして何がいけないんだ」。と思います。既に大分昭和老人になりかけています。

 我が家の浮世絵を眺めながら、どんどん想像が膨らみ、話が展開して行きます。ちょっと見ているうちに数時間が経ってしまいました。 書や絵画をずっと見続けて想像を膨らませるのはすなわち文化なのでしょう。つくづく広重はいい仕事をしたと思います。

続く