手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

芸術の理解者

芸術の理解者

 

 江戸の昔から、芸能、芸術の理解者はたくさんいたのですが、今現在そうした人たちは育っているかと言うと、どうも難しくなっているのではないかと思います。

 芸術の理解者の条件と言うのは、先ず知性があって、その上で収入がある人。然し、それだけではだめで、もう一つ、暇な人である。と言う条件が必要です。西洋東洋を問わず、この条件を満たした人がいないと芸術は育ちません。

 現代では、お金のある人知性のある人は大勢いますが、そうした人たちに時間が少なすぎるように思います。仕事を詰め込み過ぎて、身動きが出来なくなってしまっている人をたくさん見かけます。そうした生き方が本当に幸せなのかどうか。

 

 例えば今、クラシック音楽のDVDが売れ行きを落としています。ブラームスや、マーラーブルックナーと言った、演奏時間1時間以上かかる音楽を現代の知性ある人たちは聞く時間がないのでしょう。そうなると、クラシックはどんどん支持者を失って行きます。歌舞伎も同じ、能も同じ、3時間以上かかる公演に観客がなかなか集まらなくなっています。

 しかし、幸か不幸か、コロナのおかげで、多くの人に時間が出来ました。この時間を生かして、芸能芸術を理解するひと時があってもいいのではないかと思います。自分を追い詰めて仕事をすることが本当に人生にいいことなのか、もう一度時間の使い方を考えて見てはいかがかと思います。

 

 その昔、西洋で芸術の理解者は、貴族がこれに当たります。貴族と言うのは職業ではありません。それは身分です。職業と言うものは別にありません。親代々から続いた農地や、様々な既得権を守って生きて行くのが務めであり、その間に芸術や嗜好品にこだわって生きてきたわけです。

 彼らには財産があり、知性があり、時間がありました。ウイーン郊外にあるエステルハージ侯爵の城には、中に劇場があり、長くハイドンが楽長として雇われていました。屋敷にオーケストラを丸ごと雇い入れ、連日のように演奏会を催していました。ハイドンを丸抱えしていたのですから、その財力はどれほどだったのか、想像もできません。彼らは確実に芸術の支援者だったのです。

 

 日本の場合は、そこのところがもう少し多岐にわたります。無論、大名のような立場の人は、知性もあり、財力もあり、時間にもゆとりがあって、様々な芸能を愛したことと思いますが、日本の場合は、例えば、長い間、商売をしてきた人が、隠居をして、仕事を子供に譲り、残る人生を趣味や芸能に費やして行く人もかなり多かったのです。 

 それは商売だけでなく、農家で自作農をしてきた人も、田畑を子供に譲って、隠居をすることなど普通にありましたし、武士も、早くに隠居をして、身分を子供に譲ることが普通にありました。

 隠居と言うと、今日では少なくとも60歳を過ぎた人を想像しますが、江戸時代の隠居は早い人では30代くらいで隠居をしてしまいます。商売ならば、店を息子に譲り、当人は、それまでに稼いだ金で、長屋などを建てて、残りの人生は、長屋の家賃収入で趣味の金に充てて暮らしたりします。

 農家なら、七割の田畑を息子に譲り、残りの三割を小作に貸して、その小作料で得たわずかな収入で余生を趣味に費やすような暮らしをします。こうした隠居はかなり多かったらしく、町の囲碁や将棋の会所や、和歌や連歌の会合、絵画の会合や、寄席、芝居、そうしたところには、隠居をした老人(老人とは思えないような隠居が大勢いました)、が朝から詰めかけていて、日がな一日趣味に没頭していたのです。

 当時の人の感覚からすると、年を取ってまで家業に精を出すのは野暮で、まだ余力のあるうちに子供に家業を譲り、体が十分動くうちに、趣味の世界に行くのが粋な生き方とされていたようです。

 実際江戸の文化を支えていた人と言うのは、貴族や大名階級はほとんどいなかったようで、町のどこにもいるような、隠居をした商人や職人、侍などがわずかな小遣いを投資して、芸能や芸術を育てていました。

 自分の長屋に義太夫や、清元のお師匠さんが引っ越してくるとなると、率先して生徒になり、近所の仲間に声を掛けて生徒を集めてやり、生活がして行けるように配慮をしてやる。盆暮の付け届けは、同じものが集まらないように、生徒一人一人に、「あんたは米、あんたは味噌、あんたはお茶」、などとこまごま付け届け物を仕分けて、生活に不自由のないように計らってやる。そんなふうにして芸能を助けたりしました。

 

 ある噺家などは、何人かの贔屓の会合に呼ばれて座敷に行き、そこで話を一席やると、その日に限って、どうしたことか、贔屓がみんなして、話のまずさを非難します。それが余りに痛烈なため、思わず涙を流してしまうと、頃合いを見て、旦那が、

 「お前のことを席亭(寄席の経営者)に話したらね、真打にしてもいいよって、言ってくれたんだ。そこでね」、と言って、次の部屋を開けると、そこには、紋付き、羽織、袴、座布団、暖簾、手ぬぐい百本、扇子百本、真打披露の一式が全て揃っていて、贔屓みんなで「おめでとう」。と祝われた、と言う話があります。

 「お前は腕はいいが、時々自分の芸を鼻にかけるきらいがある。そこを直して、頑張りなよ」。と言われて噺家はまたまた涙を流した。と言う逸話を聞いたことがあります。

 江戸から明治にかけての贔屓、旦那衆と言うのは、一旦芸人の芸の惚れ込んだら、とことん応援する、と言う心意気があったそうです。それぞれは決して豊かな人たちではなくても、仲間を作ってみんなで小遣いを出し合って、一人の芸人を育て上げる。と言うのが自分の果たせぬ夢だったわけです。

 こうした文化は、今後も続いて行くものかどうか。芸人一人が育つのではなく、それを支持する土壌が育たなければ、芸能は育ちません。毎回弟子の披露目をするたびに今後、ご贔屓が育って行くかどうか、少し不安になります。

続く