手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

当たるも八卦 3

当たるも八卦 3

 

 信長と言う人は日本人には珍しいくらい、割り切った思考で行動する人です。予言者と言うものを、嘘か真か、その二択だけで決定したのです。そこにもしかして、と言う可能性など考えもしません。予言者の坊さんは、相手が悪かったのです。

 信長は本質を見抜く才能が人並みはずれて優れています。予知能力があるかないか、細かな詮索などしません。坊さんに命を賭けさせたのです。信長のブラフに対して、たちまち坊さんが慌てたため、それが嘘だとわかったわけです。役者の格が違うのです。

 坊さんの立場でありながら嘘を言い、世間の人を惑わせたならその罪は重い、と言うことでり、たちまち磔の刑に処せられました。信長は、本願寺と戦ったり、比叡山の焼き討ちなどをして、世間からは仏教そのものを嫌っていると思われがちですが、実際は仏教の否定をしたわけではないないのです。

 坊さんが真面目に仏教を信じることには何ら否定はしないのです。問題は、仏の力を借りて、権威を持ったり、政治に介入したり、金儲けに走ったりすることを嫌ったのです。

 この場合の予言者の坊さんも同様です。仏教の教えと関係のないところで嘘偽りを語って、庶民を惑わしたことに嫌悪感を抱いたのです。

 信長のような人が現代に現れたなら、宗教法人に対して、もっと明確な態度が取れるでしょう。少なくとも宗教法人にこびて票をもらおうなどという政治家は追放されるかもしれません。

 

 話を戻しましょう。信長のように即物的にものを判断できない人にとっては、予言や占いは、常に、もしかすると当たるかも知れないという、一抹の可能性、未知の部分を信じて、全面否定はしないものです。人には得体のしれない不思議な力があるのかも知れない。と信じている人はたくさんいます。予言者はそこに入り込んで怪しげな行動を取ります。

 

 世の中に予言者がいるとしたなら、その人は二つのタイプの人が存在するでしょう。一つ目は、百に一つの思い付きで言ったことが、たまたま初手で大当たりしたとき、恐らく予言者は言った後で人生の選択を迫られるのだと思います。つまり、まぐれで当たったことだけれども、世間が大騒ぎするから、このまま予言者になり切ってしまおうかどうしようか。迷った上で予言者になろう、と判断をした時、予言者が生まれるのではないかと思います。

 そうだとすれば、予知能力のない予言者の人生は常に不安です。当たる可能性も少ないのに、ひたすら予言者の風を装って、嘘八百を言って、虚勢を張って押し通して、うまく逃げ切ったなら成功と言う人生です。不安定と言えばこれほど不安定な人生もありません。

 かつて細木数子さんと言う人が、マスコミに頻繁に出ていて、ずばずば人の人生を断定して物を言っていましたが、長くマスコミに出演していると、だんだんと間違いが目立って来ます。それでも強気で押し通して、言いたい放題語っていると、もう気の毒なほど言っていることが破綻してきます。

 それに対してテレビカメラは容赦なく虚飾をはぎ取って行きます。身に着けている贅沢な宝石も、初めは権威者の象徴のように見えましたが、予言が次々外れるようになると、如何わしいものにしか見えなくなって行きます。

 密室で、自分を信じる人に対して個別に予言をしていたなら、まだごまかしようもあるかも知れませんが、テレビで予言が外れ始めると、取りつく島がありません。あの姿が予言者の末路なのかなぁ、と思わせます。

 

 そうではなくて、きっちり予知能力を持っている人もいるのかも知れません。でも、そうした予言者ですら確立の範疇の、百に十とか、二十くらいの予言が当たる人の事だと言うわけでしょう。例えば、確率10%以上当たる人を、予言者と何らかの協会が認定したとして、予言者の思考はどんなものなのでしょう。当たる人も当たらない人も五十歩百歩なのではないかと思います。いずれにしても、その人生は博打でしょう。

 予言者、占い師と称して、人の悩みなどを聞いて指針を示すことで生計を立てている人たちは、教えを乞いに来る人よりも不安定な人生なのではないかと思います。つまり予知能力があってもなくても、同じ人種なのではないかと思います。

 

 マジシャンの演技の中にも予言はたくさん出て来ます。ところが、多くのマジシャンが演じる予言者は、胸から封筒を取り出して、カードなり数字なりを一枚観客にひかせ、封筒の中身を取り出して、そのカードと一致していることを見せて、めでたしめでたしで終わります。

 そうした演技をするときに、当のマジシャンは、本当の予言者として予言者を演じているのか、はたまた予知能力など全く持ち合わせていないインチキ予言者が、虚勢を張って予言をしているのか、どっちの人格を演じているのか。つまり、予言を虚として演じているのか実として演じているのか、その演技の肚(原=基の考え方)など全然考えていないように思えます。

 演技の肚など考えずとも予言は当たるのですから、それでいいと思っているのでしょうが、それは予言者を巧く演じ切ってはいないと思います。実に勿体ない話です。つぶさに役を仕分けて見れば、予知能力のない予言者が、虚勢を張って、威嚇暗示をしつつ、予言を当ててゆく過程を見せたなら、こんな面白い人間模様はめったに見ることは出来ません。

 また、本当に予知能力のある予言者でも、その確率で、当たらないことも多々あるわけですから、能力のある人の差は実はごくわずかなはずです。それでも、何らかの才能があって、自身に予知能力があると自認しているなら、その根拠のある予言者と、全くあてずっぽうな予言者との差は何が違うのか、その人間の微妙な差を演じて見せたなら、実に面白い芸能が生まれるはずです。

たくさんの予言はいりません。ここだけ丁寧に演じただけでも立派な芸術になります。人間の強さ、弱さ、狡さ、間抜けさを面白く語って見せるマジシャンから生まれたなら、それは素晴らしい芸術家の誕生だと思うのです。ただの当て物マジックから脱却して、どなたか芸能芸術を演じて見ませんか。

続く