手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

当たるも八卦 2

当たるも八卦 2

 

 間が空いてしまいましたが、先週、占いや予言について書きました。占いや予言は本当に当たるのか、いろいろ考えて見たいと思います。先ず、手相、人相に関しては、実際の成功者を見て、その実例から判断していることですから、ある程度の信頼性はあると思います。

 干支占いや星座占い、名前の字画数占いなどは、対象が広いところへ予知をかけるのために相当無理があります。ウサギ年生まれの人はこうなる。などと言うのは、何百万人もの人が同じ失敗をし、同じ幸運を手に入れることなどありえないのです。にもかかわらず、週刊誌にも、新聞にも、干支や星座の占いは出て来ます。人間の持つ非論理性を利用しているのです。

 

 予知や、預言はどうでしょう。結構、予知予言で稼いでいる予言者の噂は聞きます。本当に当たるんでしょうか。

 予言に関しては、預言者がどれだけ予言したのか、その数がはっきりしないと確率は分かりません。何百と予言したうちの一つ、二つが当たると言うなら、結構誰でも当たると思います。予言者がこれまで言ったことをすべて書きだして、その確率を確かめたなら、当たりの数は微々たるものなんじゃないかと思います。

 然し、そんな程度だとしたら、予言と言うのは虚構の世界です。そもそも予知能力があるのか、ないのか、どう見極めたらいいのかが曖昧です。なぜ当たるのか、なぜ当たらないのか。その理由が見あたりません。「ただ何となく」。とか、「多分」、と言う感覚だけで発言しているなら、それは余りに無責任です。一つでも二つでも根拠が欲しいところです。然し予知予言に根拠を求めても無理でしょう。

 

 私もブログで、3年前に、「過去に大地震を二回当てた」。という事を書きました。夢に死んだ人が現れると、地震が起きます。東北の地震も、熊本の地震も、知人や家族が現れました。3年前の5月にやはり同じようなことが起こりました。

 さては関東大地震かな、と思い、ブログに書きました。「数日のうちに地震が来るかもしれない」。結果、震度三くらいの小さな地震は来ましたが、大地震は来ませんでした。震度三の地震はまぐれでしょう。

 つまり私の予知能力は外れたことになります。以来私は予知については一切書かないことにしました。私に予知能力はなかったと思うことにしました。たまたま当たった二つの地震の根拠を考えても、根拠などないのです。たまたまなのです。そうなると単なる思い付きになってしまいます。

 でも、本当に私に予知能力がないかどうかは分かりません。さっきの予言者の話のように、何十、何百もの予言をしたうちの一つが当たったなら、それが優れた預言者かも知れないからです。

 

 然し、結果として、当たらなかったことは私の人生にとっては幸いだったと思います。もし、私がブログで関東大震災を当てたらどうなっていたでしょう。きっと大騒ぎになったでしょう。そして、ただ当たっただけではなく、その後、予言者扱いされ、多くの人からいろいろな相談を受けることになるかも知れません。

 「そうなればなったで面白いでしょう」。と言う方もあるかも知れません。然しそれはとんでもないことで、自分の人生を鉄火場に身を置くことになります。つまり、言ってみれば自分がたまたま三つの地震を当てたと言うことで、一躍預言者になったとして、それで本当に自分に予知能力があるかどうか、そんなことは私には全くわからないのです。全く自信のない世界に踏み込んで、周囲からは、先生、先生とおだて上げられ、いつ大外れをして、石持て追われる身分に落とされるかもしれない立場に立たされるのです。

 日本中のあちこちから、「会社の将来を占ってほしい」。だの。「選挙の当落を占ってほしい」。だの。「娘の結婚相手を誰にしていいか選んでほしい」。だの。縁もゆかりもない人たちの将来を予想しなければならない立場に立つのです。それがうまく当たるならいい人生ですが、元々、当たる根拠などどこにもないのです。そんな職業を選んで幸せと言えるでしょうか。

 芸能以上に不安定な世界に身を置いて、人の人生を左右する発言をしたら、ほとんどの確率で失敗することは見えています。多くの有名な占い師や、預言者が知らず知らずのうちに消えて行くのは、結局は当たらないからです。重大な局面で外れてしまったりすると、命まで奪われることになりかねないのです。

 自分が高名な予言者となってマスコミで騒がれる立場になったとして、ある日、ロシア政府からお呼びが来て、クレムリンに連れて行かれ、プーチンさんに会い、「ウクライナの戦いは勝利するだろうか?勝つ方法はあるか?」。と尋ねられたら何と答えますか。また、「私の寿命はあと何年あるか?何とかあと三年寿命を伸ばす方法はあるか?」。と尋ねられたら何と答えますか。

 謝礼は望み放題くれると言われても、そもそも、自分の予知能力などないに等しいのです。地震以外、何ら予知したことなどなかったのです。いわば、まぐれ当たりで、宝くじが大当たりしたようなものです。それで人生を予言者に切り替えたなら、その先は地獄行きです。

 但し、同じミステリーな人生を歩むなら、マジシャンになるよりはよほどスリリングな人生を送ることが出来るでしょう。人生丸ごと遊んでしまおうと考えるなら、こんな生き方も面白いかもしれません。

 

 かつて織田信長が、巷で、予知能力のあると言う坊さんに興味を示し、城に呼びました。坊さんは自分を大きく見せるために信長の前で大言壮語を吐きます。すると信長は、いきなり刀を抜いて、坊さんの首にぴたりと当てて、「そんなに予言が出来るならさぞや自分の未来もわかるだろう。答えろ、お前はこの先生きているのか、死ぬのか」。坊さんはガタガタ震えて声も出なかったそうです。つまり、坊さんの未来はどっちに行っても信長の手の内にあるのです。この場で神の裁可を下すのは信長なのです。信長は予言者の本質を読み取っていたのです。

続く