手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

蹇蹇録 2

蹇蹇録 2

 

 海舟は文政6(1823)年の生まれですから、明治維新の時には45歳です。今なら45歳は中年の働き盛りですが、江戸時代は人生50年の時代ですから、45歳は隠居の歳です。

 江戸幕府の要職を経て、江戸を無血開城に導いた海舟は、文字通り、江戸幕府と共にその仕事を終え、隠居する覚悟だったようですが、海舟の仲間である西郷や、桂小五郎などが新政府の要人になるに及んで色々な要職のお誘いが来ます。

 海舟はその求めをことごとく断るのですが、あの手この手で要請されます。仕方なく引き受けますが、すぐに理由を付けて辞めてしまいます。立身出世に興味がないのです。

 実際子供のころから、熱心に勉強をして、下級の役職を手に入れて来ましたが、それは生きる手段であって、何かあると上役と喧嘩をしてさっさとやめてしまいます。

 この辺りが海舟は江戸っ子なのです。本来、立身出世に欲がなく、金を貯めることにも興味がないのです。生きるためにはある程度の努力はしますが、あくせく生きることを好ます、残った時間を趣味に使って楽しく生きて行きたいのです。

 そんなことを繰り返していても、見る人の目には海舟の才能は分かるらしく、次から次と仕事が舞い込みます。

 それが明治になっても続きます。当人は、赤坂の氷川町に屋敷を構え、隠居を考えていると、次々に人がやって来て、仕事を依頼します。

 

 ある時、役人が氷川町の屋敷を訪ね、中に入ると、門番もいない。植木の周りの草むしりしている作男が一人いて、「勝様にお会いしたいのだが、取り次いでもらいたい」。 

 と言うと、作男は「へい、少しお待ちを」。と言い、家に入り、やがて女中が出て来て中へ通され、しばらくして出てきた老人がさっき草むしりをしていた作男だったそうで、衣服を改めて出てきた海舟は少しも顔色を変えず、「私が勝です」。と挨拶をしたそうです。そしてお茶を持って出てきた女中と思ったお婆さんは、海舟の奥方だったそうです。

 日常の海舟は全く飾り気のない人で、作男のような身なりの隠居姿だったそうです。

 その海舟に晩年、政府の中で爵位を授けようと言う話になり、役人が海舟宅を訪ねて、子爵に任じたいと言うと、海舟は繰り返し断り、断固として受けない。その断った理由が、

 「俺はねぇ、生来小柄だけれど、それでも五尺(150㎝)の丈はある。それが四尺(ししゃく=子爵)になってくれと言われたって嬉しいわけがない」。と言ったそうです。相変わらず洒落心が健在で、江戸っ子として嬉しい男です。

 

 海舟のように、若くして出世をして、晩年に至るまで政府の要職を頼まれるような人は、若いころから嫉妬の攻撃を受け、常にいわれなき中傷を受けます。先輩、同輩からの中傷は、いくら言葉を尽くして理解を求めても納得されるものではありません。

 江戸を無血開城に導いた功労者だと言っても、旗本の中には、「江戸城に立てこもって頑強に戦えば、薩長に勝てたはずだ」。と信じて、明治20年を過ぎても、江戸籠城を唱え続けた侍もいたのです。そんな人に、無血開城の価値を話しても伝わりません。彼らから見たなら、海舟は幕府を滅亡に導いた卑怯者だったのです。

 つまり、先輩にしろ、同輩にしろ、海舟の存在そのものが嫉妬の対象なのですから、理屈では通じないのです。

 企業経営で成功しても、政治家になっても、芸能人として人気を集めても、それは同じことで、人を超えた立場に立つ人には必ず影法師のように嫉妬が付きまといます。

 自身が寝る間を惜しんで学んだことも、絶体絶命のピンチを前に、苦しみぬいて出した答えが大成功したときでも、周囲の先輩同輩は、「あいつは運がいい」。と言って人の努力を運でかたずけてしまいます。その上で、人から認められると。「ちょっと認められたからと言っていい気になりやがって」。といわれなき批判をします。

 海舟は常に周囲の誹謗中傷を受けていたのでしょう。然し、実際、海舟ほど周囲の人の生活に腐心した人もなかったのです。

 江戸幕府が倒れて、旗本御家人が静岡に転封になったときも、3万人に及ぶ幕府の家臣を静岡へ送るために新政府と掛け合い、船から荷駄から、様々な計らいをしましたし、そもそも、徳川慶喜の助命嘆願に腐心したのは海舟です。

 また東京に残って就職を希望する人には、積極的に新政府に掛け合い、ひたすら紹介状を書いて、仕事先を世話したのです。最晩年には徳川の遺族の年金までも引き受けています。

 また、徳川慶喜爵位を与え、宮中に参内させ、明治天皇と和解にまで持ち込んだのも海舟の努力でした。海舟はこのことを生涯最大の喜びとし、自身の活動の総まとめと心得ていたようです。海舟は現代的なものの考え方をする人ではあっても、心の中では徳川の家臣だったのです。

 

 然し、かつての仲間はそうした海舟の行動に理解を示しません。成功したところのみを捉えて嫉妬し海舟の成功を非難します。同時に新政府の役人の中でも、薩摩長州で幕末に戦った侍が、新政府の中で大して認められないとなると、幕府側にいたにもかかわらず、成功している海舟に対して嫉妬が生まれます。いつの時代でも成功者は少数です。多くの不平不満が渦巻く中で成功者は生きて行かなければなりません。

 そんな時に、海舟は、全く人の中傷には関与せず。こう言いました。

 「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に関せずと存じ候」。(真実は自分の心の中にある。毀誉は人の言うことで、私には関係ない)。

 真実は自分の心の中にあると言うのは、大きく意味のある言葉です。大きな仕事をすればするほど、自分自身が思ってもいない評価を世間から受けます。中には明らかな嫉妬心からあからさまに非難してくる人もあります。それをいちいち反論していてはきりがありませんし、そんな時に、「行蔵は我に存す」。と心の中で呟いて、じっと耐えるのは簡単なことではありません。

 

 今、コロナで逆境に立っている人はたくさんいると思います。仕事を失い、生活のなり立たない人も数多くいます。仕事がないだけならまだしも、借金がかさんで前にも後ろにも行けない人も又多くいると思います。

 仕事や金だけでなく、自分自身の存在が否定され、この先どうして行っていいのかもわからくなった人もあるでしょう。そんな時に自分自身を信じて、「行蔵は我に存す」。とつぶやいて、自身を信じて生きて行くことがこの先の道を決めることになるのだと思います。

 辛いときは辛いものです。何とかならないかと思っていても何ともならず、分かってくれと思ってもわかってもらえないのです。そんな中でじっと自身を信じて、将来を信じて生きて行る人は、心の中にかけがえのないものを持ち続けている人だけなのでしょう。さてマジシャンにとってマジックはかけがえのないものなのかどうか。いま問われているのです。

続く