手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

秀吉とキリシタン

秀吉とキリシタン

 

 南蛮人と称する、スペイン、ポルトガル人が、日本にやってくるようになったのは、1543年以降からです。日本ではこの年が鉄砲伝来の年と呼ばれていますが、別段彼らが鉄砲を伝えるためにやって来たのではなく、キリスト教の布教が目的でした。

 西洋史では、1543年は日本発見の年になっています。日本と言う国が、ポルトガル人によって発見された年なのです。日本はポルトガル人に発見されるよりもはるか昔、二千数百年前から国家であったにもかかわらず、西洋人は、自分が知らないことは世の中に存在しないも同じと考えています。まことに西洋人と言うのは自己中心的な考え方をするものです。

 以来、南蛮人が頻繁に日本に来るようになり、主に九州地域でキリスト教の布教が広がって行きます。

 やがて1569(永禄12)年、織田信長が宣教師のルイス・フロイスと接見します。もうこの時点でキリスト教は京都周辺にまで及び、大名の中にもキリシタンの信者がいて、布教活動が活発化していました。

 神父たちは、キリスト教の布教を公に認めてもらいたいのですが、誰に相談すればよいかが分かりません。この時代天皇家は衰退し、政治的な力は失っています。将軍家もいるにはいるのですが、足利将軍と言うのは全くの無力で、信長の庇護のもとでかろうじて命脈を保っている状態でした。そこで信長という新興勢力に目を付け相談します。信長はこれを許可しました。

 信長はキリスト教に大変な興味を持ったようです。但し、宗教としてではなく、進んだ科学の考え方や、南蛮貿易に、です。ルイスフロイスは、地球儀を信長に献上しています。地球が丸いこと、天体は、地球が自転することで太陽、月が動くこと、などなどを話し、それぞれ理由を述べると、信長は否定するかと思いきや、瞬時に地動説を理解したそうです。

 信長自身はキリスト教に入信する考えはありません。彼は自分が神だと信じていますので、南蛮人の神には何ら興味がなかったようです。ただ、日本の仏教が既得権に胡坐をかいて、余りに堕落していたため、批判勢力として利用しようとしたようです。

 また、その時、家来だった荒木村重に裏切られ、戦いをしているさ中だったため、村重の家来である高山右近を、キリスト教の力で織田方に寝返らせることが出来たなら、南蛮寺を全国に建てることを許可してもいい、と言う条件を持ち掛けます。キリシタン大名高山右近は実際に神父に説得され、その後荒木から離れます。

 信長は、彼らが珍しい交易品を持ってくること、また新しいものの考え方を伝えてくれることにのみ興味を示し、南蛮人の有能さに惚れ込んだのです。この先の信長が思いがけなくも亡くなったために信長とキリスト教との蜜月の時代に終わりを告げます。

 信長に変わって天下を取った豊臣秀吉は、初めはキリスト教を許可していました。秀吉は、全国平定のために九州に渡り、九州平定を試みます。この時すでに秀吉は、ゆくゆくは朝鮮、明国までも攻め取ろうと考えていましたので、南蛮船を何としても欲しいと思っていて、ガスパール・コエリョと言う神父に、「南蛮船を二艘買い取りたいんだが、本国に話をしてくれないか」。と話を持ち掛けます。

 コエリョは政府役人に話をしますが、日本の国情を見ると、うっかり日本に軍船でも持たせれば、日本人は必ずルソン島(フィリピン)まで攻めて来て、スペインを打ち破るに違いない。と警戒をし、船の売買を断ります。然し、あからさまに売れないとは言えないコエリョは、1586(天正14)年、博多で、南蛮船に秀吉を乗せます。そこでコエリョが、

「我が国は、こうした船を何十艘も所有していて、世界中に出て貿易をしています。これほどの船はアジアのどの国にもなく、その気になれば、この船で、アジアの一国を占領するくらい訳なく出来ます」。と口を滑らせます。

 

 それに対して秀吉は、「この船があれば一国を占領できる」。と言う言葉は、およそ宗教家の言う言葉ではないと判断します。つまり、彼らの目的は布教ではなく、植民地を作ること。そして、日本に船など売らずに、対抗勢力を抑えること。これが彼らの本心だと見抜くのです。

 そこで、翌年、1587(天正15)年。伴天連(バテレンポルトガル語のパーデレ=英語のファザー=神父)による布教禁止令を出します。コエリョがうっかり南蛮船を自慢した際に口が滑ったことが、自らの禍(わざわい)を生んだわけです。

 それでも、既にキリスト教に入信していた人たちの活動は認められていたのです。ところが、1596年に、サンフェリペ号事件が起こります。これは、日本を立ってルソンに向かっていた船が嵐で呼び戻され、高知の浜に座礁した事件で、役人がその船の中を調べると、日本人の子供たちが何十人も紐につながれて乗っていたのです。

 日本人を奴隷にして売買していることは明らかでした。それまでも、日本人がベトナムや、タイ、ルソンなどで商売をしていると、各地で日本人の奴隷が働かされている姿を頻繁に見ています。どうして日本人が奴隷となったのかわかりませんでした。

 しかしここで全容が現れて来ます。つまり、キリスト教の布教活動と、奴隷売買、更に領土を乗っ取って植民地化すると言う行為はすべてセットだったわけです。それはコロンブスアメリカ大陸発見以来ずっと続いてきたことで、コロンブスは新大陸で現地人を奴隷にして働かせ、金銀財宝を漁り、それをスペインに送ったのです。

 同じことをアフリカでも、インドでも、ビルマやタイ、フィリピンでも繰り返し、布教の名のもとに奴隷の売り買いをしたのです。不況と言うのはそれそのものは収入にはなりにくいものですから、宣教師の経費を出すためには、奴隷の売り買いがなければ、宣教師の生活が成り立たなかったのです。

 無論、宣教師が自ら人を捕まえて奴隷にはしません。生活が苦しいと言ってくる農民の子供を奉公に見せかけて、奴隷商人に斡旋して、リベートを受け取っていたのです。子供が日本を離れてしまえば、どう扱おうと買った者の勝手だったのです。

 キリスト教で言う、自由、平等、博愛とは白人社会における考えで、黒人や有色人種は、人間とは考えられてはいなかったのです。それを知った秀吉は激怒します。

1597(慶長2)年、秀吉は宣教師26人を磔にして、キリスト教を禁教としました。理由もなく弾圧をしたと言うのではなく、布教を認めれば日本人奴隷は減らないからです。常日頃、汝の隣人を愛せ、と言っているバテレンが、その実日本人の犠牲の上に布教活動をしていることに腹を立てて、彼らを磔にします。ここで26人のバテレンを殉教者と言うのは西洋の考え方で。日本では明らかに植民地解放、奴隷解放運動です。

 秀吉の晩年を狂気の権力者と言う人は多いのですが、少なくともキリスト教の布教を止めたこと、またその後に徳川幕府鎖国に至ったことは、誤った考え方ではなく、この時代にアジアが身を守るためには必要なことだったのでしょう。

続く