手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

内視鏡

内視鏡

 

 2年前、大腸にポリープがあるかも知れないと言うことで、内視鏡で調べてみることになりました。今は体内のポリープも小さなものなら内視鏡を入れながら切除して、半日で除去できます。それは大変に有り難いことですが、内視鏡を入れると言う行為が何とも人間の尊厳を貶める行為で、何度やっても馴染めません。

 あれから2年経ったと言うことで、大腸の様子はどうなっているか、もう一度内視鏡を入れて中を見てみよう。となって、昨日(9日)、慈恵医大病院に行き、朝8時から、16時まで、内視鏡を入れるために格闘しました。随分と疲れました。

 

 内視鏡を入れるには、前日(8日)の晩飯から、制約があります。キノコや、消化の悪いものは駄目、酒は駄目、さらりとしたものを少量食べます。私はポトフーと、煮た奴豆腐を食べました。あっという間に食べ終えてしまいます。娘と女房は、それを横目においしそうに肉や焼売を食べています。私は仕上げに軽い下剤を呑んでそれでお終いです。満たされぬ思いのまま二階に降りてデスクワークをします。

 翌朝は7時に家を出て、朝食は抜きです。8時に慈恵医大に着きます。さてここから下剤を2リットル飲みます。250㏄ずつ、ちびちびと飲みます、前回(2年前)は500ml飲むとすぐに便意を催し、簡単に排出が始まったのですが、この日は一向に排便しません。周囲の患者さんはどんどんトイレに駆け込んでいます。然し私は腹が張るばかりで全く便意が起きないのです。結局1リットルの薬と、水500ml飲んでしまいました。腹はパンパンに腫れています。

 思うにこの一週間、便秘気味でした。そのことを看護師さんに話すと、「じゃぁ、浣腸しましょう」。とあっさり言われ、ここで生まれて初めて浣腸をしました。

 誰でも若い看護婦さんにお尻を見せて、浣腸されるのは嫌でしょう。看護婦さんは特別な気持ちも持たずに、ただ即物的に私の肛門に浣腸をしました。別段痛くはありません。ぬるりと少量の薬が入りました。

 すると、あれほど出なかったものが、すぐに便意が催されました。それを、「すぐに排便してはいけませんよ。薬だけ流れ出てしまいます。なるだけ我慢して5分経ったら排出してください」。

 そう言われても、もう便意はすぐそこに来ています。出ないで困っていたのに、今度はすぐに出そうです。それを出すなと言われるのはこれも苦痛です。我慢しろと言われても、無理です。急ぎトイレに入って、しばらく座っていると、初めに出口をがっしり固めていた硬い便がするりと出て、その後、中ぐらいの硬さ、柔らかなものまで、立て続けに各駅、急行、特急列車が出て来ました。

 さて、ここからは5分に一回くらい排便が来ます。そしてその都度、看護婦さんに便を見せなければいけません。排便が8回くらいになると、便が水のようにサラサラになり色も透明になって、体内は浄化されたことになり、内視鏡を入れて中を覗くことが出来るようになります。

 体調のいい人は7回くらいできれいになって、いち早く内視鏡室へ行って検査をしています。ところが、私は、朝8時から始まった下剤による排便が、何回やってもきれいな水便になりません。10回、12回と過ぎてゆくうちに午前の内視鏡の検査は終わり、私一人午後のグループに回されました。

 どうしたものか私は綺麗な便が出ません。毎回看護婦さんに診てもらいますが、「まだ駄目ね。便がよどんでいます」。別段私が、夜中に盗み食いをしたわけでもなく、何か問題のある生活をしたわけではありません。にもかかわらず、私一人が取り残されて、排便数が15回を超えて行きます。すると、体そのものが疲れて来ます。

 2リットルの下剤は既に飲み尽くしました。常に下剤で腹が圧迫されています。上から下剤を呑んで、ただ排便するだけです。それが妙に疲れます。単行本とパソコンを持ってきていたのですが、読みたい、作業をしたいと言う気力が起きません。看護婦さんは親身になってくれて、一緒に熱心に便を見つめてくれます。

「もう少しね、きっとあと3回くらいできれいになるわ。もうちょっとだから頑張ってね」。そう言われても、何を頑張るのかわかりません。体内の汚れは私が汚しているのではありません。私の性格によって便が汚くなっているのではありません。私が技術介入する余地があるなら、テクニックを駆使して努力もしますが、ただ排便するだけの親父にどうしろと言うのでしょうか。それが18回目になってようやくOKが出たときは、ほっとしました。時刻は1時半を過ぎました。

 2時半から内視鏡が始まりました。別室の手術台に横向きに寝て、腕に点滴を打ちました。その点滴の薬が、睡眠薬に変わって行くと。もう何もわからなくなり、ぐっすり寝てしまいます。その間に肛門からホースを入れ、大腸をぐるりと内側から調べるのですが、全く寝てしまっているため、何が起こったのか気づきません。

 目が覚めたら、全てが終わっていました。時刻は15時半でした。随分よく寝ていたようです。「まだ麻酔が効いていますから、帰る時によく気をつけて下さい。歩くとフラフラしますから」。つまり麻薬患者状態なのでしょう。確かに更衣室に戻る際に、フラフラして、自分で制御が効かない部分があります。服を着替えて、座り直しているうちに大分しっかりしてきました。とにかくこれで内視鏡はお終いです。

 病院を出て、歩いていると空腹を感じました。帰り際に砂場に寄って、ざるそばを食べようと思いました。然し、中休みの時刻で店は閉まっています。仕方ありません。虎の門前のはなまるうどんに行きました。体に気を付けた食べ物となるとこうしたものしかないでしょう。一日中冴えない思いでいましたが、うどんを一杯食べたら、生きる気力がわいてきました。排便との戦いで脱力感と、諦めを感じていたところに、少し元気が出て来ました。

 実は、私が格闘中、舞台方の木下隆さんが電話が来て、手打ちうどんを作って、私の家にうどんを持って来てくれました。木下さんのうどんは定評があり、粉から練り方から研究されていて、全く讃岐うどんが再現された仕上がりです。

 そうなら、なにもここではなまるうどんを食べなくてもいいはずですが、丸一日何も食べていないのであまりに空腹です。何しろ水が体をするする貫通してしまうのですから、やはりここでうどん一杯入れておきたかったのです。薄い出汁に浮かぶ腰のあるうどんは、一筋掬ってのどを通過すると、生きる喜びを感じました。「あぁ、食事ってうまいもんだなぁ」、と改めて感じました。もしこのうどんに一杯1万円の値段が付いていたとしても、私は躊躇せずに1万円を支払ったでしょう。それほど自分の体がこのさっぱりとしたうどんを求めていたのです。

 家に帰ると、鍋でした、豆腐や白菜、ネギ、肉、そして仕上げに木下さんのうどんを入れました。短い時間にうどんを二食食べましたが、これはこれであらためて幸せを感じました。午前中の格闘が嘘のようです。この日は幸せな一日でした。

続く