手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

桂林

桂林

 

 もう20年も前のことになりますが、中国の桂林でマジックの世界大会があり、そこにゲスト出演を頼まれ、大会に参加しました。主催者は、呉漢生(ごかんせい)さんと言う、中国のマジシャンで、呉さんは、30数年前、東京の板橋文化会館で第一回のSAMの世界大会を催したときに、ゲストで出演してくれたマジシャンでした。

 この大会は、板橋区が区政60周年記念と言うこともあって、何か大きなイベントを打ちたいと言われ、私がマジックの世界大会を提案して、企画が通ったものでした。板橋文化会館のすべての施設を使わせてもらい、かつ予算を付けてもらったおかげで、大きな大会が出来ました。

 そして、この機会を利用して、日本の奇術界をひとまとめにしようと考えて、アメリカのSAMを日本に持ってきて、日本中に35の支部を作り、全国的な組織を作りました。この頃は私もまだ30代半ばでしたから、いくらでも仕事が出来たころでした。

 平成元年にイリュージョンチームを株式会社にして、平成二年に杉並に今の家を建て、アシスタント5人を要し、イリュージョン活動をする傍ら、プロアマ一体となったマジック組織を立ち上げて、毎年一回日本各地で世界大会を開催していったわけです。その一回目が19991年の板橋区開催の大会だったのです。

 その大会では長年私が呼びたかったマジシャンを世界中から呼び集めました。ジョニー・ハート、ノーム・ニールセン、ダニリン、ボローニン、ビト・ルポ、ハンズ・モレッティ、予算がありましたから、思いっきり使いまくっての大会でした。

 そうした中で、私は一つ、どうしてもやりたいことがありました。それは、中国の伝統的なマジック、古彩技法(大きな風呂敷から、たくさんの水鉢を出すマジック)などを見せてもらいたかったのです。 

 欧米の優れたマジシャンを招くことも大事ですが、アジアの文化も忘れてはいけません。しかし当時は簡単に中国人を招くことは出来ません。今ならたくさんの中国人が日本に来ますが、当時は、中国人は海外旅行が出来なかった時代です。

 そもそも誰を招いてよいのかが分かりません。そこで、戦前に上海で仕事をしていた、熊本マジッククラブの会長の原田英次さんに相談して、いろいろ当たってもらったのですが、桂林雑技団のマジック部門の責任者の呉さんが来てくれることになりました。

 ビザを取得するために何度も中国大使館に行き、随分大変な仕事をしました。呉さんは奥さんと一緒に来日しました。呉さんとすれば海外旅行は初めてですし、見るものすべて驚きの日々だったようです。今の中国と日本を比較ではなく、当時の中国は発展途上の国でした。

 そこで3日間にわたるマジック世界大会が開催されたのを見た呉さんは、驚きの連続だったようです。マジックショップが40軒も並び、そこで、マジックの道具が売り買いされているのを見てびっくり、レクチュアーを見てびっくり、文化会館の舞台の大きなことを見てびっくり、大ぜりが付いていて、エレベーターで昇降して、人が出てくる設備を見てびっくりだったようです。

 呉さんは、古彩技法と鯉釣りの二つを演じました。無論、登場は大ぜりに乗って出て来ました。呉さんの、縄を客席に放り投げて、40㎝もある鯉を二匹釣る芸は初めて見ました。面白いマジックでした。

 また、彼にとっても日本滞在の一週間は夢の世界だったようです。呉さんは帰国後この様子をレポートして、雑技団に報告し、早速桂林でもマジック大会を開催したいと動き出したようです。それから10年。呉さんは桂林マジック大会を主催するに至ります。そして日本のゲストに私を指名してくれたのです。

 

 話は長くなりましたが、そういういきさつで、私は桂林に向かいました。当時桂林に行くための直行便と言うのはなく、まず上海へ行き、そこから国内便に乗り換えます。上海空港はまだ昔の飛行場で、新しい空港は建設中でした。中国人の海外旅行はこの後から始まったようです。

 上海空港で待ち合わせにレストランでビールを飲んでいると、一本のチンタオビールが4円でした。その後桂林について、私が泊まるホテルのレストランで同じビールを頼んだら、3円でした。同じホテルでの、下の階の喫茶店で呑むと2円でした。夜になって屋台の食堂で同じビールを頼むと1円50角でした。随分場所によって値段が違います。

 通貨の単位は元ですが、元は円と同じ意味です。当時のレートは一元が日本の14円でした。チンタオビールは、30円以下で呑めたのです。それだけでなく、私と小野坂東さんとで屋台で焼きそばを頼んで、カシューナッツの炒めを頼んで、ビールを数本飲んでも1000円しなかったのです。これは酒呑み取っては天国でした。

 大会自体は中国国内や、香港当たりのマジシャンが多く出演していました。あまり記憶に残っていなかったのですが、主催者からは大切にしてくれました。但し、日程や時間がめちゃくちゃで、朝レストランで、「今日は何も用事がないからゆっくり観光でもして来て下さい」。と言うので、早速人力車に乗って観光しようとすると、慌てて呉さんがやって来て、これからリハーサルをしますから市民会館に来てください。と言われました。全く話が違います。

 そして急遽、人力で市民会館に行こうとすると、この人力が年寄りの運転する人力三輪車で、なかなか進みません。30分近くかかって市民会館に着きますが、これなら歩いたほうが早かったと思いました。料金は5円(60円)です。この年寄りに自転車をこがせて、若い大人が二人後ろに乗っていると、老人虐待に見えます。少し気が引けました。

 市民会館に着くと、会館そのものが誰も人がいなくて、真っ暗な楽屋で数時間待たされました。午後になってようやく関係者が来て、リハーサルが始まりました。そうなら午前中だけでも観光できたのに、と、不快感が募りました。

 何にしても、呉さんの10年来の夢だった世界大会に付き合い、中国奇術界発展に寄与できたことは名誉だったと思います。あの時代と今では全く別の世界です。その後上海や北京にも行きましたが、もうあの時代の中国ではありません。何にしてもいい体験をしました。

 東京大会の帰り際に、呉さん夫婦をレストランに招き話をしましたが、今まで何も言わなかった奥さんが、「日本の歌を知っている」と言い、「あの子はだあれ、誰でしょね」。と小さな声で唄い出しました。

 幼いときに、日本の兵隊が教えてくれたと言いました。どう言う理由で日本の兵隊を知ったのか、そのいきさつは聞かずじまいでしたが、50年も経って日本語を覚えていたことに驚きましたし、抗日活動で日本は中国人から憎まれていたであろうに、奥さんの歌う歌は、幸せそうでした、彼女は50年経って、それを披露して、東京大会の感謝を示してくれたのです。

続く