手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

吉野家さん失言 2

吉野家さん失言 2

 

頭のいい人の落とし穴

 食と言うものを、企業戦略とか、利潤追求とか、販路拡大とか。そんなことばかりを考えて商売をしていると、いつしか食の基本である、食べる喜びがまったく見えなくなってくるのではないかと思います。

 ファーストフード店は、日本中どこも均質な味で、安く、早く食事を提供する点で、便利で、人気があるのだと思います。ところが、大量販売、大量消費を毎日繰り返しているうちに、経営者は、利潤追求や原価削減ばかりに目が行き、いつの間にか、お客様に、食を味わう楽しみを伝えることを忘れてしまっているのではないでしょうか。

 無論、世の中には、食にあまり期待せず、そこそこうまくて安ければそれでいい、と言う人もたくさんいるのでしょうから、そうしたお客様のお陰で、ファーストフードは成り立っているのでしょう。

 経営する側の人たちは、「食なんてこんなもの、お客なんてこんなもの」。と言う諦観が定着して、結果「田舎から出て来た生娘をシャブ漬けにする」。と言う言葉が出て来てしまうのかも知れません。

 

 今回のことは、一人の取締役だけが間違ったことを言っていて、ほかの役員、経営者はみんなお客様を大切に扱っている。と言うことでしょうか。どうもそうではないように思います。

 私はいろいろな分野の有能な人を見ているうちに、時々、まったくお客様、或いは、利用者、患者、市民、つまりサービスを受ける側の人たちのことの配慮が欠けた人を見ることがあります。

 そして、その経営者、或いはリーダーと呼ばれる人が、往々にして組織の中では有能と言われているのです。私が30分話をしただけで、この人は間違った考えをしている、と気付くのに、「なんで周囲の人は長い時間この人を見ていて、この人の間違いを指摘をしないのだろう」。と不思議に思うことが時々あります。

 そうした人が、頭のいい人であることは話をしていてよくわかりますが、肝心なところでお客様見えていなかったり、自分の考えばかりで物事を進めようとします。つまり、有能と呼ばれている人の中にこそ危険な考え方をしている人たちがいるのです。社内で次々にヒットを飛ばすアイディアマンが、その実、会社の都合だけで企画を立てて、まったくお客様のことを考えていなかったりします。しかもそんな人を会社は重用します。

 今回の取締役も、社内では優秀な人で、会社の売り上げには多大な貢献をした人なのです。それだからこそ、早稲田大学マーケティングセミナーの講師に招かれたのでしょう。でも今回の問題が起きるまでなぜ、この人の危険さに会社は気付かなかったのでしょうか。今回のことはとても企業経営やマーケティングを考えるにはいいチャンスだと思います。

 取締役の言葉からは、自社製品の愛情も感じられなければ、お客様への感謝も感じられません。むしろ、こんな商品でも自分が経営戦略を建てればたちまち売れるようになる。と言わんばかりの奇妙な自負心さえ感じられます。

 さすがに早稲田の学生は取締役の話を聞き、「経営に成功した人だと言っても、これは違うだろう」と、反発したのです。

 頭のいい人、その道のベテランが常に正しい行いをするわけではありません。むしろ、同じような仲間といつも仕事をしていると、世間常識からどんどん外れて行ってしまうことが多々あります。そしていつの間にか、自分たちが非常識な考えで凝り固まっているいることに気付かなくなっているのです。

 飲食店と言うものが本来何をするものなのか、という基本が飛んでしまった結果が今回の失言の原因なのだと思います。でもそんなことはどこの会社でも自治体でも日常起こっていることなのです。

 

笑いの怖さ

 取締役は、学生時代落語研究会に所属していたとネットの情報に書いてありました。お笑い好きなのです。今やお笑いは社会に定着して、笑いのセンスのある人は仲間の間で大変な人気です。でも、笑いの世界と言うのは怖い世界なのです。

 私の親父がお笑い芸人だったことはこれまでブログにも随分書いています。当然私の周囲には子供のころからたくさんお笑い芸人がいましたし、随分影響も受けました。よく楽屋の先輩から、「どうして君はお笑いをしなかったの」。と尋ねられました。

 私はかなり早くから、「自分にはお笑いは無理だ」と、考えていました。それは親父が絶妙に面白かったからです。話の組み立て方から、笑いを作るセンスから、どう逆立ちしても親父にはかないません。但し、技術的な問題でかなわないなら、笑いの技術を習得すればどうにかなります。そんなこと以前に、親父は天然の面白さを備えていましたし。親父は私にはない武器がたくさんあったのです。

 親父は、デブで、禿げで、ちびで、頭が大きくて、三頭身のような体形でした。そしてのべつ金がなくて、世の中のコンプレックスを全て抱えたような人でした。親父はそれをよく承知していて、自身の弱点を隠しません。世間に毒を吐いて、言いたいことを言っても、ふと我が身に立ち返って、「俺もあまり人のことは言えないな」。などと、弱みを見せるのです。これで言い過ぎたことが全て許されます。

 笑いは、弱者が、時々強者にたてをつき、やがて我が身の情けなさに気付くから面白いのです。「お前はそこまで言えないだろう」。とお客様に突っ込まれるから、毒を吐いても許されるし、人は笑うのです。親父は、言葉の駆け引きをするタイミングが絶妙でした。それだけにお客様は抱腹絶倒したのです。

 こどものころからそれを見ていた私は、やがて自分自身が笑いを語っても、親父ほどには受けないことを知ります。つまり元々私は強者に位置する人間なのです。強者の立場にいるものが弱者を笑うと、そこに笑いは起きません。いじめになります。親父と同じセリフを私が言ってもお客様は笑わないのです。

この時私は、「あぁ、私は笑いを作る立場の者ではない」。と知ったのです。その後、北野武さんを知合います。たけしさんは、当初、誰彼構わず毒を吐き、婆ぁ、ブス、やくざ、うんこ、おしっこ、あらゆるマイナーなネタで笑いを作って人気を勝ち取って行きました。始めは全く売れない漫才だったので、世間の人はたけしさんの毒のある攻撃に喝采します。然し、5年10年と経つうちに人はだんだん笑わなくなって行きます。なぜか、それはたけしさんの方が大きくなってしまって、誰もたけしさんにかなわなくなってしまったからです。「研ナオコ、歌がまずけりゃただのブス」。なんて言って笑いを取っていたのが、いつの間にか、研ナオコの方が弱者になってしまい、大物のたけしさんが弱者いじめをしているように見えるようになったのです。

 このころたけしさんは随分悩んでいました。誰もたけしさんを突っ込まなくなったのです。たけしさんが、その後、バカネタに徹し、着ぐるみを着て出て来ることにためらいを持たないのは、自分を下げる以外笑いが作れないことを知ったからです。

 さて、今回、なぜ吉野家さんの取締役が、ネットで批判されたのかは、言うまでもないことです。会社を背負っている有能な会社役員が、弱者である田舎娘を笑いのネタにしたからです。強者が弱者を笑えば、その反動はとてつもなく大きなものに跳ね返ることをご存じなかったのです。笑いは怖いものなのです。

続く