手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ネットとスマホ

ネットとスマホ

 

 かつてよかった商売が今は全く振るわなくなってしまって、企業が規模を縮小して行ったり、閉店したりしています。一つは、銀行です。かつてどこの町でも一番しっかりとした建物を持っていて、たくさんの行員を雇って活動すていたものが、今はどこの銀行もお客様は少なく、建物の中は閑散としています。

 結局、スマホで決済ができてしまうため、銀行に出かける人が少ないのでしょう。かつての銀行の窓口で順番待ちに30分も40分もかかっていたのが嘘のようです。

 小売店もあまり振るわないようです。デパートなどはその最たるものでしょう。駅前の一等地に大きく店を構えていたデパートが、この10年はいつ行ってもお客様が少なく、地下の食料品街以外は、どの階も人が少なく、閑散としています。地方都市のデパートが次々に閉店しています。私などはデパートの屋上のイベント広場などで良く使ってもらっていたのですが、地方都市の老舗のデパートが閉店すると言うニュースを聞くと何とも残念です。「あぁ、あそこのデパートの屋上で、よく子供たちがたくさん集まってマジックを愉しみに見てくれていたなぁ」。と今でも何十年も前のことを思い出します。

 これもネットで商品の購買が出来るようになったため、小売店の売り上げが落ちているのでしょう。実際にものの良し悪しは直接品物を見なければわからないはずなのですが、ショッピングと言う言葉自体が過去の言葉になっているのでしょうか。

 コロナ以来人は出歩かなくなり、人込みの中で買い物をしなくなったのでしょう。人の生活スタイルが変わってしまったのでしょう。

 地図とか辞書も買わなくなりました。私自身はまだ辞書を使っていますが、多くの人はもう辞書を開くことはないのでしょうか。若い人を見ていると、知らない単語が出て来たり、知らない人命を聞いたりするとすぐにスマホで調べています。大概はそれで間に合ってしまうのでしょう。便利と言えば便利ですが、一つの情報に頼り切ってしまうのも、危険だなぁ。と思います。

 地図は今や買うことはなくなったでしょう。私が20代のころは、日本中のキャバレーに出演していましたので、各都市の地図を買い求めて、暇な時間はホテルでずっと地図をみて、暗記をしてました。車で移動するときに、町名を頭に入れておくと、大きな間違いをしないからです。中心街周辺の町名を数多く記憶しておくと、車の移動で迷った時にかなり役に立ちます。20代のころは行く都市行く都市初めてのところが多かったので、事前に地図を見てひたすら暗記していたのです。

 然し、今は車にナビが付いていますので、場所を設定すれば何の苦もなく現地に着きます。便利です。便利ではありますが、地方都市の町名などは全く記憶できません。今も20代で覚えた町名が時々全き何の関連もなく、思い出されるときがあります。

 米沢に武家屋敷町という町があり、これは「ぶきやしきまち」と呼びます。武家がなぜ「ぶき」と呼ぶのかはわかりません。珍しい呼び方だなぁ。と思って記憶しています。宇部の町はずれに藤山交差点があります。道は広いのですが、別に大した建物もなく、どうという交差点ではありません。でもなぜか忘れられません。

 キャバレーの出演は、夜だけですから、3日間も同じ場所にいると、日中は退屈します。そこで、ホテルで朝、ひたすら地図を眺めて、散策する場所を決めます。そして車に乗って、市内のあちこちを歩き回ります。これが結構面白く、日本中を見て回れていい経験をしました。

 盛岡のキャバレーに2日間出演して、その後釜石のキャバレーに2日間出演しました。盛岡を出ると、ほとんど山道で、町らしい町がありません。記憶した道を頼りに進みます。途中の遠野と言う町に、アマチュアマジシャンがいる情報を聞いていて、事前に電話をかけてお宅に伺いました。その頃は若かったため、誰彼関係なく出かけていたのです。

 お宅に伺うと、その人は、今は、マジッククラブもあまり会員が集まらないので、めったに例会もしていないと言うことでした。客間の床の間を見ると、三味線が立てかけてあります。趣味が長唄だと仰いました。「私も長唄をやっているんですよ」。と言うと、相手はとても喜んで、「それじゃぁ」。と言って、三味線を出して、越後獅子を弾き始めました。私もそれならばと唄わせていただきました。相手の三味線は先ず先ずでしたが、私の長唄はそれほどうまくはなく、何度かつっかえましたが、偶然の出会いで、いきなり越後獅子は楽しかったです。相手方も喜んでくれました。

 その後、「スケートに行きましょう」。と言うので、町のスケートリンクにでも行くのかと思ったら、町はずれにある大きな池に出かけました。季節は12月だったでしょうか。池は氷が張っています。然し、どう見ても氷が薄いので、これは危ないと思いました。それでも相手はなんとか滑れそうな場所を探して滑ろうとしていますが、この寒空にうっかり氷が割れて池に嵌ったら一大事です。何とかやめてもらいました。結局その後は分かれて帰ることになりましたが、すっかり打ち解けて、是非また来てほしいと言われました。然し、お宅に伺ったのはあの時が一度だけでした、遠野と言う町自体も以後出掛けることはありませんでした。

 柳田国男が書いた「遠野物語」と言う本を10代のころ読みましたが、その本に出てくる町や村の名前を一生懸命思い出そうとしましたが、いざ遠野にきてみると何一つ思い出しませんでした。もっとも柳田国男が遠野を訪れて、当時の村人の伝承を訪ね歩いたのは明治40年ころの話です。明治と昭和50年ころの遠野とでは何もかも違ってしまったでしょう。ところどころ古い民家がありましたし、町はずれはいかにも田舎の風景が見られました。断片的ながら遠野物語はここいらの話なのかと理解しましたが、本に書かれた世界とはあまりに違っていました。

 遠野のアマチュアマジシャンは、帰り際に何度も、「釜石のショウが終わったら帰りにまた寄って下さい」。と言われました。そうありたいとは思いましたが、釜石の夜のショウを終えたら、ホテルに泊まり、翌朝、車で東京に帰らなければなりません。途中で遊んでしまうと、東京には深夜に帰ることになります。当時はまだ東北自動車道は全通していなかったのです。関東に入ってから下道を通らなければならず、これが時間がかかりました。そのため遠野へは立ち寄らず、まっすぐ帰りました。

 山の中を、何度も道を間違えて戻ったり、人に尋ねたりして、釜石から東京に帰りました。楽しい思い出でした。

続く