手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ご近所の話 4 明治通り

 昨日は二人指導をいたしました。アマチュアさんですが休まず熱心に通ってきます。熱心であればたちまち上達します。ある時期、のめり込むほどにやり込まなければ、マジックの本当の面白さは分かりません。いいことです。

 今日は朝から前田の指導です。前回と今回は鳩出しの技法を教えています。私の鳩出しの直接の師匠は渚晴彦師ですが、前にも書いたように、チャニングポロック師からじかに聞きだした秘密など、他の人が知り得ない技がありますので、どこかで継承しておかなければなりません。弟子にだけ伝えることにしています。

 

明治通り

 環状道路は、関東大震災の防災対策として生まれたと話しました。明治通り(環状5号)までは比較的早くにプランを立てたようですが、それでも西側地域の人口増加に追い付かず、不忍通り(環状3号)外苑西通り(環状4号)は散々な結果に終わっています。然し、何とか用地買収が出来て、片側2車線の立派な通りが環状になったのが明治通りです。それも戦前に西半分が出来たようです。東京の環状道路はそれぞれできた時代をよく反映しています。明治通りと、環7環8通りを比べると、はっきり時代の違いを感じます。

 私は明治通りを車でドライブするのが好きです。明治通りは昭和初年のモダンな世界が随所に見られますし、そこを車で走らせていると、昭和の初めの人たちが都市にどんな夢を感じていたのかがよくわかります。

 新宿の伊勢丹デパートの正面玄関前が明治通りです。そこから渋谷に向かって南下すると、右に高島屋、左に新宿御苑の大きな森が見えます。競技場やプールなどのオリンピックの施設が見え、原宿に至ります。このあたりから街の様子ががらりと変わって、アパレル産業の会社や店が並ぶ通りが続きます。ここらは建物も、店も斬新で目いっぱいおしゃれです。車を走らせていても爽快です。右に明治神宮の森が見え隠れして、左が表参道です。ちょっと表参道に寄って車を止めて、しばしテラスでコーヒーなど飲みたくなります。特に新緑の表参道はすがすがしくて素晴らしい街です。

 表参道と言うのは明治神宮の参道と言う意味で、神社の参詣道です。ところが、町がおしゃれなものですから、年末にこの通りをクリスマスのイルミネーションで飾ることが流行っています。これは明治神宮に対して失礼です。イエスキリストと明治天皇は関係ありません。それでも街の雰囲気は東京で一番クリスマスのイルミネーションが似合うため、明治神宮も苦情は言わないようです。

 大切なことを言い忘れていましたが、明治通りと言うのは、明治神宮の横を通る道であるために明治通りです。それを知らずに「通りに明治製菓の工場でもあるのか」。と勝手なことを言う人がいますが、根本を知らなのです。そういう人はまず明治神宮に参拝したほうが良いでしょう。

 さらに南へ下ると、渋谷のロータリーに至ります。そこから地下鉄銀座線が空中3階に伸びて、東急デパートの横っ腹を突き抜けてデパートの中に入って行きます。今でこそなんでもない風景ですが、昭和の初めに、地下鉄が地上3階を走り、デパートと直結すると言うのは宇宙基地を見るようだったと思います。その東急デパートは私の子供の頃は東横デパートと言いました。東横デパートの2階から山手線と東横線が走っていました。一階のロータリーには玉電と呼ばれた流線型の、芋虫のような丸い路面電車二子玉川園まで走っていました。全く宇宙基地でした。

 この広いターミナルをさらに南下すると、左が台地で、広尾の屋敷町です。右が渋谷川です。春の小川は渋谷川の支流の小川のことです。恵比寿で、東に道が曲がって、天現寺などの寺が並び、左手の坂の上一帯は大使館がたくさんある屋敷町です、その下をずっと東に進んで古川橋に至り、やがて東京湾に出ます。明治通りはここまです。

 伊勢丹から北に上ると、高田馬場と早稲田の間で都電と交差します。この先、右に行くと都電終点早稲田です。そのまま北に上って行くと、住宅街が続き、目白通りと立体交差します。この交差の仕方が昭和初年の作りできれいです。環7通りのように、人工的に盛り上げたりしません。自然に目白通りの橋がかかっていて、明治通りはその下を潜ります。明治通りから目白通りに行くには、左にゆっくりカーブを上りながら橋の上に出ますが、昭和初年で既に車の立体交差が出来ています。然しこの立体交差を車で通れた人たちは、昭和初年では目白のお屋敷町に住んでいた少数の人たちだけだったでしょう。

 さらに北に向かうとそこは池袋のロータリーです、今は西武デパートとパルコが立っていますが、私が20歳くらいまではパルコは丸物(まるぶつ)百貨店と言っていました。丸物百貨店には、私に鳩出しを教えてくれた渚先生がマジックのディラーで働いていたそうですが、残念なんがら私はその頃の先生とは出合っていませんでした。

さらに北に行くと住宅街が続き、北へ抜けると飛鳥山です。ここでまた早稲田近辺を走っていた都電と出会います。都電と一緒に飛鳥山の急坂を下ると王子駅前です。ここが明治通りの北の端になります。王寺駅前に長いことぼつんとビルがありましたが、昔は白木屋デパートの支店だったそうです。白木屋は居酒屋ではありません。日本橋にあった江戸時代から続く歴史の古いデパートです。

 そこから一気に明治通りは東に南下します。ここから先は戦後(1945年)以降に開発された道でしょう。通りは機械部品を扱った店が並びます。近くには町工場がたくさんあります。私が道具を作るために通った、アクリル屋さんも、キャスター屋さんも、ゴム屋さんも、バネ屋さんも、みんな明治通り沿いにあります。梶原の都電の交差点に、渡部鉄工所があり、私はよくイリュージョンをそこの親父さんに作ってもらっていました。随分お世話になった親父さんでした。

 王子の鉄工所と、向島の木工所は私の大道具製作の場所で、よく明治通りを利用して、向島と王子を行き来していたのです。

 明治通りは西側だけ見ていると、おしゃれな通りと思われますが、王子と向島の中間には。「あしたのジョー」という漫画の主人公の住んでいた、山谷のドヤ街があります。今もこのあたりでは、仕事にあぶれた人たちが路上で酒を飲んで寝ていたりします。泪橋などと言う交差点もあり、漫画を知る人はその名前を見ただけで涙があふれて来ます。食うや食わずのジョーがボクシングに人生の不満をぶつけていた街です。

 その泪橋も、アパレルのおしゃれな原宿の町も、同じ明治通りなのです。何にしても私には思い出深い通りです。そこから先の明治通りと、私の昔のお話しはまた明日。

続く