手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

親ガチャ 2

親ガチャ 2

 

 キャバレーの仕事から離れて、イベントの仕事を中心に生きて行きたい。と思うようになったのは26歳の頃からです。

 キャバレーの仕事は、初めはいい収入になって有り難いと思っていましたが、何年たってもあまりギャラが上がらないことに気付くと、新作のマジックを出したり、イリュージョンを出したり、手妻(和妻)の衣装や、道具に費用をかけて演じることが負担になって来ました。

 そこで、イベント会社を探して、イベントやパーティーの仕事を中心に活動して行くようになりました。然し、イベントも会社のパーティー不定期で、いつ来るかもわかりません。仮に出演して好評だったとしても、来年も頼まれることはありません。イベントは仕事の本数にはばらつきがあります。そのため、当初は随分苦しい思いをしました。

 

 このころ、毎年初夏にはアメリカに行き、マジックキャッスルに一週間出演し、それに付随して、アメリカのローカルコンベンションに出演し、出演と出演の間はアメリカ各地のマジッククラブでレクチュアーをしたり、イベントに出演したりしていました。

 このレクチュアーは、毎年1か月くらい出かけて、帰ってくると100万円くらいの収入になりました。日本でキャバレーやパーティーをしていて稼ぐ収入の3か月分くらいになります。

 最高収入は、27歳の時でした。3か月みっちりアメリカに行って、4つのコンベンションのゲスト出演をして、キャッスルに出て、27都市のレクチュアーをして帰って来た時には300万円近い収入を手に入れました。但し途中で黒人にバッグをひったくたれて、70万円取られてしまいましたが。

 この活動は、私には何ら不足はありませんでした。アメリカでショウの出演が出来て、レクチュアーで稼いで、たくさんの海外マジシャンと仲良くなれて満足でした。

 少なくとも、他のマジシャンにはできないことであり、ましてや親父の仕事をしていてはこんな活動は不可能でした。もう十分自分自身で自分の生き方を見つけていると信じていたのです。すなわち親ガチャを超えた仕事の仕方を見つけていたわけです。

 仕事はアーノルドファーストさんと言う、古いマジシャンが、長年の伝手でアメリカ各地のマジッククラブと連絡を取ってくれて、私がアメリカに着くまでに完璧なスケジュールを作って待っていてくれました。ツアーに出るときには、ファーストさんが日産の自動車を運転して、こまごまマネージメントをしてくれます。

 若いころにこんな生活をして、アメリカ中を回っていけたならこんな楽しいことはありません。

 しかし実際アメリカを回ってみて気付きました。如何にアメリカが大きいと言っても、マジック愛好家がたくさん集まるクラブはそう多くはないのです。27都市も回ると、もう大概網羅してしまいます。そこから先は思いっきり小さな町の少人数のマジッククラブを訪ね歩く以外なくなります。

 コンベンションも同じです。大きなコンベンションに何か所か招かれると、後は小さなコンベンションばかりになります。小さなコンベンションではギャラもわずかです。

 まず交通費が出ません。コンベンションには一週間くらい滞在しますので、旅費と出演料で3000ドルくらいもらわなければ収入にはなりません。然しローカルコンベンションでは、交通費なしの1000ドル、ひどいときは500ドルが全てと言う条件です。当然これでは無理です。すると主催者は、「店を出したらいい。レクチュアーをしたらいい」。と商売を勧めます。

 これが悪魔のささやきです。収入を補うために、商品を販売してローカルコンベンションを回るうちに、マジシャンはいつしかディーラーになって行きます。

 私はマジックショップの経営者は立派な職業だと思います。然し、マジシャンが小銭稼ぎに、小道具を数点並べてそれで生活しようとする姿勢が好きではありません。

 自分が何になりたかったのかを考えたなら、それは自分のする仕事ではないことに気付かなければいけません。実際私もレクチュアーをして、小道具を販売をしていました。然し、そのときはファーストさんが売ってくれました。

 でも、もしこの先、私がアメリカのマジッククラブにしがみついて生きて行ったら、コンベンションの出演にこだわっていたら、いつしか私もディーラーになってしまったでしょう。

 さらにこの先、ヨーロッパに出かけてレクチュアーをして、コンベンションに出るようになれば、間違いなくディーラーになってしまいます。

 アメリカの平原を日産の車で飛ばしながら次の町に行くときに、「あぁ、この仕事も今年を最後にしなければいけない」。と強く思いました。

 さて、私がなぜレクチュアーとコンベンションを回るツアーをやめようと思ったか、「こんな仕事はやめた方がいいよ」。と言うサインがいつやって来たのかをお話ししましょう。

 

 ファーストさんから「今度のアメリカツアーは27都市でレクチュアーをするから、たくさん商品を持ってきてほしい」。と連絡がありました。そこで、大きなスーツケースを二つ。肩に担ぐバッグを一つ。計3つのバッグを持って日本を発ちました。

 ロサンゼルスの空港で、スーツケースの中身をチェックされたときに。ふたを開けた途端、たくさんのグッズがバラバラ飛び出してきました。「これは何だ」。と尋ねられ、「マジックグッズだ」。と言いました。「アメリカの仲間に土産で上げるものだ」。と言って通過しました。

 然し、この時、私は自分が方向を間違えていることを知りました。スーツケースを開けたときに、整然とマジックの装置が並んでいるのがプロマジシャンです。販売の小道具がバラバラはみ出て来るのはプロではありません。

 「こんなことをしていて一流のプロマジシャンと言えるのか」。自責の念に駆られました。儲かるからと言って、毎年だんだんと販売用具の量が増え、いつしかマジックの道具よりも販売用具が増えて、グッズの運び屋になっています。「自分はどこかでいいわけをして生きている。こんな生き方はもうやめよう」。と、空港で心に誓いました。

 そう誓ったすぐ後に、ファーストさんが空港の出口でにこやかに迎えてくれたのです。「これが麻薬だ、これが自分の人生を遅らせるのだ」。と思いました。間違った道を勧める人はみんな優しい、いい人なのです。

続く