手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アーノルドファーストさんのこと 10

アーノルドファーストさんのこと 10

 レクチューアーツアーの後半から、ピッツバーグ大会までの旅は、ファーストさんとは険悪な関係になっていました。ファーストさんは、「君の将来を思えば、ここで無駄な金を使ってはいけない」。と、私の生活に口出しをし、教育的に諭そうとします。

 具体的には私が食べようとする5ドルのランチを、高いからと言って4ドルの方を勧めます。デザートのチョコレートパフェは無駄だと言います。「帰りに、マーケットでアイスクリームを買えばいいじゃないか」。と言い、延々とチョコレートパフェの無意味を語ります。

 高木先生や、二川さんがこの人とレクチュアーツアーをした時に、この人のに素直に従っていたのだろうか。と、いぶかしく思います。結局、お終いの頃には口もきかなくなります。そして、レクチュアーツアーの打ち切りを申し出ます。元々、ピッツバーグまでが当初の日程でしたから、そこでツアーを終わるのは了解済みのはずです。

 然し、彼は帰り道に5つ6つのレクチュアーと、ローカルコンベンションの出演を提案してきました。それはすべて断りました。「それじゃぁ君はどうやって帰る」。と言われて、「飛行機で帰る」。と言うと、まさか私が一人で飛行機で帰るとは想像していなかったらしく、急に懐柔策を持ち出して来ました。

 私は、ピッツバーグ大会を終えると、残った道具とレクチュアーノートの全てをファーストさんに差し上げました。熱心に売り込んでくれて、長いツアーを作ってくれたことは感謝でした。然し、気持ちはすぐにでも帰国をしたかったのです。ピッツバーグの最後の日に、レストランにファーストさんを招待し、食事をご馳走しました。

 ファーストさんは、「高い高い」、と言って、店の料理の値段に驚いていましたが、私はロサンゼルスのハエのたかった中華料理店には二度と行きたいとは思いません。ファーストさんには礼を言い、別れました。

 これが私と彼とが仕事をした最後となりました。彼は、その後、私を恩知らずと罵り、あちこちの仲間に苦情を言っていたようです。

 

 この時レクチュアーツアーをしたことで、私はアメリカのマジック界と言うものがどういう風に成り立っているものなのかが分かりました。ローカルなコンベンションと言うのは、ある時はディーラーが運営していたり、パートマジシャン(お誕生日マジシャン)がリーダーとなって運営している大会が殆どです。

 そうした大会は、海外からゲストを呼ぶことなどできません。ギャラも交通費込みで500ドルとか、めいっぱい出して1000ドルと言った謝礼しか支払えないのです。そんな状況ですから、ファーストさんから、「日本のマジシャンが近所に来るよ」。と言う情報を貰うと、すぐに飛びついてきて、いきなりトリに出演させてしまうのです。

 初め、私はそれを名誉と考えていましたが、私がトリを取るような大会ですから、他のメンバーは推して知るべしで、アメリカ国内のディーラーや、お誕生日マジシャンばかりが出演します。プロと言える人は一人として出ていません。そうした中で私が受けるのは当然なことです。でも、もし私がそうした仕事場に満足していたなら、私にはいつまでたってもプロとしての仕事は巡って来ないでしょう。

 私は3年、アメリカでレクチュアー活動をして、果たして、ここにいてはいけない。これは人生の無駄遣いだと気付いたのです。

 

 ピッツバーグの大会の時に、ホテルのロビーに、16,7歳の少年が縮こまって座っていました。体は大きいのですが、顔を見るとどうも高校生です。彼は落ち込んでいました。コンテストに出て、箸にも棒にも引っかからなかったのです。彼は私を見つけると、そばに寄って来て、アメリカ人とは思えない程謙虚に、

 「先生、教えてください。僕は何がまずいんでしょうか」。と聞いてきました。私は彼の演技を見ています。およそ、大したことのない演技でした。確か鳩を2羽くらい出したと思います。カードも語るべきものはありませんでした。

 方や、ランスバートンが出て優勝しています。今となっては少年が出ていたことを誰も覚えていないでしょう。私は言葉に詰まりました。そして、「君の鳩出しはうまく出来ていたよ」。と言うと、「本当のことを話して下さい。きっとダメな演技なんですよね。でもどうしたらいいんですか。教えてください。今やっていることの全てを捨てて、全く新しいことをして見たいんです。先生それにはどうしたらいいでしょう」。

 この話は、うっかりすると、私に手妻を教えてくれないか、と言う話になりかねません。日本に付いて来られたら困ります。然し、この時私自身も、彼と同じように、全てを捨てて、全く新しく生きて行きたいと心の中で思っていたのです。そこで、

 「君が、自分を捨てて新しく生きて行きたいと思っているように、私も自分の全てを捨てて、生きて行きたいと思っているんだ」。と正直に言いました。彼は驚いて、

 「どうしてですか、先生は何でも出来るじゃぁないですか、みんな先生のレクチュアーを習っています。それがどうして自分を捨てたいんですか」。

 その時私は、「今の私は仮の姿だ」、と言いました。そして「本当にしたいことはもっと別の方向にある。でも、それを見つけ出せないから私も苦しんでいる。そして、結局、自分を捨てるなんて出来ないんだ。なぜならば、これまで生きてきたことの中にしか成功のチャンスはないからだ」。と話しました。

 私の拙い英語が少年に伝わったかどうかは分かりませんが、思いは同じであることを話したのです。彼は私から、新たな難題を突き付けられて悩んでいました。

 実際、帰路の飛行機の中で、私はどう生きて行くべきか、そればかり模索していました。日本ではキャバレーに出演して収入を得ていましたが、キャバレーの仕事にも陰りが見えます。キャバレー以外の仕事場を探さなければこの先は生きては行けないことはわかります。せっかくのアメリカツアーも、稼ぎは大きかったのですが、何となく大会にも、マジッククラブにも、限界が見えます。

 ヨーロッパ行きと言うアイディアも、結局アメリカツアーの焼き直しであるなら、アメリカのマジック事情を知った今となっては、あえてヨーロッパに出かける意味はありません。あれもダメ、これもダメと言っていてはいつまでたっても自分の生きて行く道は見つかりません。

 

 東京に帰って、久々、父親と会い、酒を飲みながら話をしました「自分が今までの人生を捨てて、全く新しく生きて行きたいと思ったことはあるの」。と質問をすると、父親は「ある」。と言いました。「それでどうやって生きる道を見つけたの」。と聞くと、父親は黙ったまま、何も言いませんでした。

 答えは出なかったのでしょう。結局、諦めて今日まで生きて来てしまったのでしょう。「そうなのか、人は諦めてしまうんだ」。重く暗い雲が自分自身に覆い罹りました。結局人は人生の後半を諦めて生きるしかないのだと知りました。

 私を一縷の望みとアドバイスを求めに来た、あの、アメリカの高校生もあの後、マジシャンの道を諦めたのでしょうか。私は、彼を助けることもできませんでした。偉そうなことを言っても、自分の生き方すらわからないインチキ指導家なのです。

続く