手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アーノルドファーストさんのこと 11

アーノルドファーストさんのこと 11

 こうして3年に渡るファーストさんとのレクチュアーツアーは終わりました。二度と経験することのできない、面白い体験でした。

 これでファーストさんとの関係は全く絶えたのかと言うと、そうではありませんでした。日本に帰ると、ファーストさんから手紙が届きました。内容は、「私も考えを改めるから、また来年一緒にツアーをしよう」。と言うものでした。

 これは丁重にお断りしました。ドイツ人が自らの生活習慣を簡単に改めるはずはありません。ドイツ人に限らず、白人は、大体25歳までで自分の生活スタイルを決めてしまいます。同時に自分のなすべきマジックも完成してしまいます。それ以降は急に頭が固くなり、想像力が減退して行きます。白人は25歳までの努力で残りの人生を生きて行こうとする人が殆どです。ファーストさんも全く同じです。結局同じことを繰り返し、私にストレスを与えるに決まっています。

 ところが、その年、またまたマジックキャッスルのマジックオブザイヤーのビジティングマジシャンに選ばれたのです。2年連続の受賞です。すると、ファーストさんから手紙が来て、「今がチャンスだ。またコンベンションに売り込もう。レクチュアーツアーを作ろう」。と手紙が来ました。彼から見たなら私は金の卵を産む鶏なのでしょう。でも幾ら儲かってもこの仕事は嫌です。またまたお断りの手紙を出しました。

 

 日本に帰ってからの私の生活は大変でした。先にマンションを買った話をしましたが、毎月9万円のローンは、当時の20代のマジシャンにとっては破格でした。少しでも安定して返済するために、儲かった分から100万円を銀行に入れ、足らない時の予備としました。更に、帰った月末に結婚式をしなければなりません。見栄を張ってヒルトンホテルですることになっています。参加者300人です。グレートトムソーニさんが来日中で、東さんの好意で顔出しをしてくれました。乾杯は、参議院議員コロムビアトップ師匠です。すみえ師匠、北見マキ師匠、ナポレオンさん、マギー司郎さん、仲間がみんな来てくれました。式は100万円以上の出費になりました。アメリカの儲けはあっという間に消えて行きました。

 

 このころ、収入のほとんどはキャバレー出演でした。これは相変わらず本数は多かったのですが、私は、アシスタントを使って、イリュージョンをしたかったのです。然し、キャバレーはアシスタントを使って二人、乃至は三人で活動するには不向きでした。先ず交通費が3人分出ないのです。ギャラも出ないのです。手で荷物を持って、一人で回っている分には仕事はいっぱいありますが、車を使って大きく活動するとなるともうキャバレーでは無理なのです。新たな仕事場を探さなければなりません。自分のしたい活動と現実の仕事場の現状のギャップには随分悩まされました。

 

 一方、マジックキャッスル、世界大会、レクチュアーに関しては今回のツアーで熱が冷めました。これはたまたま若いうちにこうしたチャンスがあったから経験したことであって、こんなことをこの先も繰り返していてはいけないことだと理解しました。

 私はこの時一つに誓いを立てました。「コンベンションを稼ぎの場にすることはよそう」。と言うことです。コンベンションと言うのは、アマチュアと、若いマジシャンのための場なのです。そこに分け入って、自分のわずかな知識を金儲けに利用するのは下品な行為なのです。みんながみんな、新しくやって来るアマチュアを食い物にして、小銭をせしめていたら、マジックの世界はいつまでたっても豊かにはなりません。

 能力のある人は能力を、稼いだ人はその稼ぎの何割かを、マジックの世界に奉仕しなければいけません。そうでなければマジックの社会が豊かな恵まれた社会にはならないのです。そうなら、私は、自分自身が何とかなって、金を稼いでからコンベンションに顔出しをしよう。その時には販売もせず、大会に来ている若い人たちに食事をご馳走し、アルコールを振舞ってやろう。そう考えたのです。実際それから8年間、コンベンションには参加しませんでした。8年後、SAMの日本地域局を起こすことになって、再度世界大会に行くことになります。

 

 ところで、私がアメリカで多くの人に喜んで迎えて貰えたのは、私の和の知識がアメリカ人にとって新鮮だったからでしょう。これはその後も私の武器になりました。

 然し、その和の知識も、一皮むけば、見せている内容がすべてです。他に知識などないのです。もっともっとこの道でオーソリティになって、深い内容を見せなければいけません。多くのことを知って、多くのことが出来なければいけません。そうなるためには当時の私には知識も努力も足らなかったのです。人に指導して得意になっている場合ではないのです。もっと真剣に手妻の研究をしなければならないと痛感したのです。

 

 翌年、私と和子さんはマジックキャッスルに出演しました。新婚旅行みたいなものです。彼女は私がサムタイを演じる時だけ刀を持って出て来てくれました。和子さんはおよそ舞台に向かない人でしたが、この時だけは喜んで手伝ってくれました。全くマジックを演じることのない人が一週間マジックキャッスルに出演したのです。

 この時にファーストさんが楽屋にやって来ました。一年ぶりの再会です。一通りの挨拶をしましたが、その時に、レクチュアーをしようとは言ってきませんでした。諦めたのでしょうか。その後、日本人の若いマジシャンを連れてレクチュアーツアーをしたと言う話も聞きません。日本にも来なくなりました。世界大会でも見ることはありませんでした。

 今生きていれば100歳近い年齢になると思います。アメリカ人の平均寿命からすれば、そんなに長生きはできないと思います。然し、亡くなったと言う情報は未だどこからも聞いてはいません。

 ファーストさんをを悪く言うのは簡単なことです。催眠術は偽物、医学博士も偽物、マジシャンも偽物。何一つ人に優れた才能を感じることは有りませんでした。スーツは一張羅、ズボンの丈は短くなっていて、おかしな格好をしていました。どう考えても稼いでいるマジシャンには見えませんでした。

 然し、性格は誠実で、几帳面でした。周囲のマジシャンからは、その生活のスタイルは笑いの種でしたが、彼の性格のすばらしさは誰もが認めていたのです。人と比べて、才能で超えたもののないマジシャンが、晩年どう生きなければいけないか。彼はそれを私の前で実践して見せてくれたのです。得難い体験でした。今も感謝しています。

アーノルドファーストさんのこと 終わり