手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アーノルドファーストさんのこと 8

アーノルドファーストさんのこと 8

 

 ファーストさんは、この長いツアーの間、お姉さんをボランティア団体に任せているそうです。彼にすればお姉さんの看病疲れから解放され、しかも、古い仲間に合えることは当人のストレス解消にもいいのでしょう。彼は毎日多弁でした。

 古い仲間に合って食事を誘われると、彼は、一人ではしゃいで喋りまくって、ギャグを言い、実に快活でした、然し、周囲の仲間が彼のギャグに笑ったことはなかったように思います。私は英語のギャグはよくわかりませんでしたが、彼のギャグは誰も笑いませんでしたから、笑いのセンスはなかったように思います。

 むしろ、センス云々を語る以前に、仲間に合っている時の彼は、躁鬱質(そううつしつ)の躁(そう)の状態に近く、お姉さんの鬱(うつ)質と真逆な性質を見せました。

ある意味、彼も精神的な病気を持っていたのではないかと思います。

 こうした性質はアメリカ人によくあるタイプです。多くは孤独なのです。誰にも認められず、誰からも相手にされず、日々落ち込んだ生活をしています。それが、たまに賑やかな場所に出ると嬉しくて、喋りまくり、話題の中心になろうとします。しかし効果は空回りし、周囲の人は、内容のない空回りした孤独な男の会話に辟易するのです。

 それでも彼は医学博士ですし、催眠術師です。かつてはテレビに出ていた有名人です。そして、今は、日本の若い者を探し出して、コンベンションや、レクチュアーに連れて来ると言う、特殊な能力を備えています。

 

 彼は私がレクチュアーする脇で、私の日本語を通訳します。然し、彼は日本語を理解していません。「お早うござーいまーすー」と「高い高い」と「幾らでーすかー」。「マイ友達」。「変なガイジン」。それしか話せません。何十回も日本に来ているにもかかわらず、日本語を単語でしか話せないのです。

 したがって、彼の通訳は、レクチュアーノートからの引用です。ところが、レクチュアーが慣れて来ると、私が一言言った言葉がかなり長い英語になって通訳されます。当然受講者から笑い声が起きます。「新太郎は今、イエスと言っただけだろう」。とやじられたりします。それでも彼は喋りまくります。彼にとっては日本語を理解していることが得意なのです。

 然し、実際、質問などがあると、彼はその質問を日本語に直せません。更に、私が日本語で答えた答えを通訳できないのです。やむなく私が英語で説明すると、会場から拍手が起きます。いくら私が英語が下手だと言っても、3か月もアメリカに暮らしていれば、大体の英語は話せるようになります。

 旅の間中、車の中で、カーラジオがかけっぱなしです。私は当初ラジオの言葉は何も聞こえて来ませんでしたが、いつしか、内容に相槌を打ったり、疑問を投げかけたりするようになりました。そしてはたと気づきます。「あれっ、今ラジオは英語で話していたのに、何で私は内容がわかるんだろう」。

 そうなのです。日本にいるときは、単語の一つ一つがわからなければ英語は理解できないと思っていたのですが、連日アメリカにいると、単語なんかわからなくても、流れを聞いていれば、うっすらと内容が理解できるようになるのです。それはちょうど赤ちゃんが、大人の会話を聞いていて、その内、分かった内容を言葉を真似て、話すようになるのと同じです。話の流れが読めるようになるのです。「あぁ、語学を学ぶと言うことはこういうことなのか」。と納得しました。

 いつしか私は英語と日本語をちゃんぽんでレクチュアーをするようになりました。それで十分受講者は内容を理解します。にもかかわらず彼はそれを通訳しようとします。しかも長い通訳をします。受講者にはもうファーストさんは不要なのです。でも彼は舞台に立てば、躁質全開で喋りまくります。私はファーストさんの顔をつぶさないようにところどころ彼に英語の意味を質問したりします。彼は得意になって英語で話します。でも、英語を英語で答えられても私には分かりません。

 

 セントルイスのコンベンションを終え、インディアナポリスや、クリーブランドなど、東寄りの中央部をレクチュアーして回ります。このころ、私はもうレクチュアーに興味を失っています。そこでファーストさんに、早くレクチュアーを切り上げて帰国をしたいと申し出ます。無論彼は反対です、「これから先まだまだ多くの受講者の集まる街がある、ひと稼ぎするチャンスじゃないか」。

 しかし、私はいくら金になってもこの仕事は嫌でした。指導が嫌なわけではありません。純粋に人を育てるための指導ならやってみたいと思います。一日一日と移動しながらレクチュアーするのではなく、むしろ数人のアマチュアを育てるために数日一つの町でじっくり指導をするならいいと思います。今の活動は金もうけなだけです。恐らく私のような性格は、どんな仕事をしてもそこそこ稼ぎを上げる人間にはなれるのでしょう。いわゆる目端の利く男なのです。そんな男でもこの仕事は嫌でした。

 元々、舞台の場を探してアメリカに来たのに、今は指導と種を売ることが主になっています。道がずれて来ています。これは軌道修正をしなければなりません。そこで、「ファーストさん、申し訳ないけど、今していることは私の仕事ではない。ピッツバーグIBM大会までは責任をもってするけども、やはり、ここまでにして帰国をしたい」。と言いました。

 それから彼は、車の中でも、ホテルでも、必死に私を引き留めようとします。

 「君と私がコンビを組めば、もっともっと金を稼げる。この仕事に何が不満なんだ。サラリーマンの何十倍も金を稼げているじゃぁないか」。

 「君が、私の年齢になればわかる、お金と言うものがどんなに貴重なものかを。若い時に勢いに任せて金を使ってしまうと、金が入らなくなってからの生活がみじめになる。だから金は溜めなければいけない」。

 「今君は大きなチャンスを手に入れようとしている。このままコンベンションの出演とレクチュアーを続けていれば、君はこの社会で大物になれる。来年も再来年もコンベンションやマジックキャッスルに出続けているうちには知名度も上がり、大きなマジシャンになれる、その時までの辛抱だ」。

 そうなのです、私も日本にいるときには彼と同じことを考えていたのです。考えていたからこそここまで来たのです。然し、アメリカ中のマジッククラブを見て、いくつかのコンベンションに出演して、キャッスルに出演して、分かったことは、ここに長くいてはいけないと言うことでした。私の動物的な勘で、今やめて帰国をするのが逃げ徳だと感じたのです。なぜそう感じたのか、それはまた明日。

続く