手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アーノルドファーストさんのこと 6

アーノルドファーストさんのこと 6

 レクチュアーは、デンバーソルトレークシティ、と山奥の町を指導し、そこから一気に中部まで車を飛ばしました。ちょうど大陸横断鉄道のコースを車で行くことになります。険しい山道を過ぎると、いきなり平原が続きます。そこから中部のカンザスシティまではほとんど平地です。この平地を2日間かけて車で走りました。

 何しろ平地があまりに広くて、彼方に地平線が見えます。雨が降るときでも、余りに平地が広いため、全体に降りきらず、二三か所に分けてポツンポツンと雨雲がわいて、雨が降っているのが見えます。その雨が止むと、虹が出ますが、一度に3つの虹が東西南北に出たりします。

 その平地はほとんど畑です。小麦畑が2時間も続くかと思うと、トウモロコシ畑がまた2時間続き、その内、真っ黒な景色が見えてきたかと思うと、それは牛の放牧をしているところでした。牛が永遠と続いて行きます。牧草地には、たくさんの鼠がお座りして日向ぼっこをしていたりします。あまりに単調な風景が続くために運転は退屈します。こうした土地には立ち寄るような町もありません。

 カンザスシティに入るのに、時間を読み違えてしまい、思いのほか、時間がかかってしまいました。レクチュアーの1時間前に主催者の家に着きました。ところが主催者は少しもあわてていません。几帳面なファーストさんは、「すぐに会場に行きましょう」。と言いましたが、主催者は、「まぁ、ゆっくり食事でもしてから行きましょう」。とのんびり構えています。どうも様子が変です。なんでこんなにのんびりしているのかと思えば、車でカンザスシティに入るところで、州が変わり、時差が1時間発生していたのです。そのため、カンザスシティの時間ではレクチュアーまで2時間ありました。州の間に時差があるとは、全くアメリカの広さに驚かされました。

 地方のレクチュアーに行くと、その地域の有力者や、会長などから、家に泊まりに来てくれないか、と、頻繁に進められました。好意は有り難いのですが、ここは慎重に考えなければいけません。アメリカも中部や南部は、人種差別が激しい土地で、主に黒人などは毛嫌いされます。そうなら日本人はどうかと言うと、人としては認められていたとしても人種として見たならやはり差別の対象なのです。

 クラブの会長が私を泊めたがっていても、家に行くと奥さんが毛嫌いするようなこともあるのです。アーノルドファーストさんは、家に泊めてもらえばホテル代が浮くために、泊目てもらおうと言います。しかし彼はドイツ人ですから問題ないとしても、私は、人種のことを彼に伝え、家族みんなが賛成するなら泊まってもいいと言いました。すると、どの会長も、家に電話をして、奥さんから賛同を貰いました。

 そこで家に行くと、まるで風と共に去りぬの映画に出て来るような大きな家でした。ところが、そこに住んでいるのは老夫婦が二人です。息子や、娘はロサンゼルスやシカゴに行ってしまって、誰もいないのです。夫婦は子供たちが自活してゆくことには反対しません、然し、寂しいのです。そこで、縁もない私を泊めたがるのです。

 ある奥さんは、「朝食を作るから、一緒に菜園の野菜を摘んでくれない」。と言います、私はざるを持って、一緒に庭の野菜畑に行き草を積みます。すると、「両親はどこにいらっしゃるの」。と聞いてきます。「私の家の近所ですよ、歩いて行けるところです」。「まぁ、なんてすばらしい、奥さんはいるの」。「えぇ、このツアーが終わったら結婚します」。「まぁ、それは幸せね」。年を取った女性と私はまるでままごと遊びをしているかのように会話を楽しみました。

 彼女は私の生活に興味を持ったらしく、「後2、3日泊って行ってはどうか」。と言ってきました。広い部屋に泊めてもらい、いい食事をさせてもらい、広い庭、穏やかな夫婦、何も不満はありません。しかし我々は次の都市に行かねばなりません。訳を話してお別れをします。

 はたから見たなら、びっくりするような大きな家に住んでいる夫婦はとても幸せそうに見えます。然し、誰も訪ねてこない生活が果たし幸せかどうか。日本のように、貧しくても、親子がしょっちゅう会って、一緒に鍋でも食べながら、世間話している生活のほうがよっぽど楽しくて、幸せなのではないかと感じました。

 

 ツアーは、テキサスに入り、ダラス、ヒューストン。そこから東へ、リトルロック、メンフィス、ナッシュビル、と、レクチュアーをしました。途中、エルビスプレスリーの生家に行き、そして、プレスリーの亡くなった家にも行きました。彼はすでに亡くなっていましたが、死んでも大スターで、家の前には土産物屋が並んでいました。

 道は北へと進み、ミシシッピー川に沿って北上し、セントルイスに入りました。ここではセントルイス周辺のアマチュアが主宰しているコンベンションに出演しました、勿論私が大トリです。正直、私自身はトリにふさわしいマジシャンとは思っていないのですが、なぜかアメリカでは着物を着てサムタイ、連理をすると大うけです。バーノンの私への賛辞が雑誌に載り、みんなが見たがっていたのです。

 

 さてこうして、レクチュアーとコンベンションを回っているうちに、私は、日本円にして300万円以上の稼ぎを上げました。そのうちの25%をファーストさんに渡しましたので、ファーストさんは70万円以上の収入を得ています。彼の生活の仕方で行けば、3,4か月近くは生きて行けるでしょう。そして、この先のピッツバーグの大会の帰り道、気をよくした彼はまだ何10か所もレクチュアーを取ろうと企画しました。

 しかし私は断りました。帰国の期日が近づいていることが第一の理由でしたが、何より、この人と一緒に仕事をすることが嫌でした。私は当初、ヨーロッパのマジシャンと接触を持とうと考えました。アメリカでやったことをヨーロッパでやってみようと考えていたのです。

 ヨーロッパを回って、大きなコンベンションに出て、レクチュアーをして、あわよくば、仕事のチャンスを見つけようと思っていました。然し、こうしてレクチュアーをして回っているうちに、考え方も変わってきました。ファーストさんにとっては、私は金の卵を産む鶏です。一緒にアメリカ中こまめに回ればまだまだ相当稼げると考えています。それはその通りです。単純に稼ぐだけのことならうまい方法はあります。然し私は今の活動に限界を感じていました。その理由はまた明日お話ししましょう。

続く