手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アーノルドファーストさんのこと 9

昨日の稽古

 昨日(25日)朝に前田の稽古をしました。数日前に前田が玉ひでで、おわんと玉をしましたが、この時の手順は、私の所に習いに来るアマチュアさんに教えている手順でした。ある時期、私はおわんと玉に凝りまして、4つも5つも手順をこしらえました。

 なぜそんなことをしたのかと言えば、おわんと玉はパームとバニッシュの繰り返しなのです。実に20回以上も同じ動作を繰り返します。部分的にはいいハンドリングもありますが、現代の感覚で見たなら、面白みの薄い手順です。

 そこで、同じ動作を省くために、随分いろいろなハンドリングを考えてみたのです。今残っている手順は、その時作った3作です。自分自身の手順、弟子に教えるための手順、一般に指導するための手順、です。この中から出来のいいハンドリングを教えました。きっとこの先いい演技になって皆さんの前にお見せできるでしょう。

 

 名古屋の小川慶子さんが、ご主人が作って殆ど着ることのなかった大島紬を送ってくださいました。残念ながら私にはサイズが合いません。前田が着るとちょうどぴったりです。前田は幸運です。大島紬は糸取りから、染、織まで全て手作りですから、とんでもなく高価です。20代の若者が着られる衣装ではありません。有難くいただきました。

 

アーノルドファーストさんのこと 9

 私はアメリカでレクチュアーツアーをしているうちに、「このやり方では人は育たない」。と知りました。始めに演技をして見せ、そして種明かしをする。その時にポイントになる部分を少し話して、それでおしまい。後はノートを見て個人個人が練習する。私が少し突っ込んだ教え方をすると、ファーストさんが後で、「そんなことは無駄だ」。と言います。「習う人も、本気なら個人レッスンを受けて習うはずだから」。と言います。

 然し、マジックはそんな簡単には習得できません。ほとんどの参加者は、わかった気持ちになって、タネがわかって、ハッピーになってそれで終わりです。

 これは指導に見せかけた金儲けです。他のマジシャンのレクチュアーを見てもみんな同じです。彼らは人を育てようとは考えていません。金を作るためにレクチュアーして廻っているのです。私もその一人です。

 

 アメリカはどんな小さな町にもマジッククラブがあり、それがSAMかBMの組織に所属していて、みんな月刊誌を購読しています。

 SAMもIBMも毎年世界大会を開催していて、1000人くらいの参加者を集め、マジックショップだけで40軒も出ます。アメリカでは小さなコンベンションも含めると、年間30くらいのコンベンションが開催されています。それを外から眺めていると、アメリカと言うものの力の大きさに圧倒されます。

 然し、つぶさに眺めて行くと、あちこちに矛盾が生まれています。先ず、世界大会が増え過ぎたことがどこも運営を圧迫しています。IBMのディーラー会議では、毎回のように、「この売り上げではやって行けない」。と言う、ディーラーの嘆きの大合唱です。恐らくアメリカはコンベンションのピークが過ぎてしまったのでしょう。参加者は先を争って道具を買うと言う状況ではなくなっていたのです。

 レクチュアーも、お友達同士の修行ごっこになっていました。私のように熱心にメモを取るアマチュアなどいません。本気で勉強する人が殆どいないのです。みんなやってもできないと諦めているのです。

 私は、「あぁ、このシステムからはいいプロは育たないなぁ」。と得心しました。3年前(79年)にベルギーのFISMに行ったとき、翌年(80年)IBMパサディナに行ったときは、ただただコンベンションの大きさに圧倒されるばかりでしたが、こうして自分が出演して回るようになると、アメリカの現状が黄昏て来ていることを実感します。私は、こんな中で要領よく立ち回っている自分自身に嫌気がさしてきました。

 

 レクチュアーツアーは続きます。五大湖近くの都市は、都市ごとに、ドイツ系、スェーデン系、イギリス系と、人種が固まって都市を構成していて、それぞれお国を思わせるような作りの家が建っています。ヨーロッパを旅している気持になります。私は夏に回ったため涼しかったのですが、ここらの冬はヨーロッパ並みに厳しいでしょう。

 ピッツバーグは大きな都市でした。自動車産業が盛んな工場の町です。しかし近年は日本車に追われて不況の嵐が吹いていました。私はIBMの大会で1000人のレクチュアーと言う企画を受け持ちました。1000人と言っても1000人すべてがレクチュアーを受けるわけではありません。参加者のうちせいぜい半分が受講します。250人程度のレクチュアーを2回しました。

 アメリカ人は喜んでくれましたが、私はこんなレクチュアーは不満です。ファーストさんはびっくりするくらいノートが売れて大喜びでした。大会中、会う人、会う人が私のノートを持っていて、サインをせがまれて、腱鞘炎になりかけました。

 この大会のコンテストに、ランスバートンが参加していました。もう会場ではランスバートンが優勝すると言う噂でもちきりでした。私はこの時初めてランスバートンを見ました。この時彼は21か22でしょう。やや病的な顔をしていて、神経質そうでした。演技は鳩出しですが、この時期鳩出しは不人気な時代でした。

 鳩出しは、8年に一度くらいずつ、不死鳥のごとく名人が現れて人気を盛り返します。初めはチャニングポロックです。昭和35年ころから一世を風靡して、昭和40年ころに収束します。すると昭和40年代末に島田晴夫師が現れて人気を博します。そしてひとしきり下火になった頃、今度はランスバートンが現れたのです。

 奇しくも私はそのデビューを見たことになります。無論、素晴らしい演技でした。鳩が自分で電柱に停まりに行くアイディアは素晴らしかったですし、お終いの鳩とカードの連続技も斬新でした。大会中私は彼に合いました。彼は「日本に行きたい」。と言いました。私は「なんとか日本に来れるように工夫するよ」。と約束しました。私の企画は達成出来ませんでしたが、数年後、実際彼は日本にやってきて公演しました。その時私の家で宴会を開きました。その後も何度か彼に会っています。いい仲間です。

 さてIBMの大会を終えて、もう少しレクチュアーをして回ろうとファーストさんは言いましたが、私は申し出を振り切り、一人で飛行機でロサンゼルスに帰ることにしました。彼一人、車で大陸横断して帰すのは気の毒でしたが、それに付き合うとレクチュアーをする羽目になります。不義理ではありますが止むを得ません。

 何より、ランスバートンの演技を見て、「こんなことをしている場合ではない」。と思う気持ちでいっぱいでした。今は何となくアメリカのみんなが私を温かく迎えてくれます。でもコンベンションは仮想の世界です。ここ安住していてはすぐに消えてしまいます。さっさと日本帰って自分の舞台を考え直さなければいけません。私はファーストさんに別れを告げてそそくさと帰国をしました。

続く